せめて俺がいるときだけは



 風呂から上がった氷室は湿り気を帯びた足裏を廊下に貼りつけながらリビングへ向かった。まだ濡れる髪にタオルを引っかけ、休んでいる弟へ入浴を終えたと告げる。

「タイガ、あがったから次お風呂はいっていいよ。タイガ……?」

 テレビの電源を落とした物音のしないリビングのソファで、エプロンを身に着けたままの弟が静かに寝息を立てていた。氷室が声をかけても目蓋を動かす様子はない。
 弟の名を呼ぶのははばかれた。氷室は冒しがたい沈黙を保つことで、眠る弟をまなざしで愛でた。普段着にエプロンをかけたままソファで眠る弟に、高価な調度品を剥き身で転がすような不用意さを感じる。ここは彼の部屋で、気を抜くことのできる私的な空間だというのに。
 まるで発作のような衝動だった。ソファの座に膝をかけると、氷室は眠りに落ちたままの弟の唇に己のそれを重ねた。きしみひとつ立てず、弟を起こすことのないよう所作に気をつけて。
 向かい合う弟と同じように目蓋をおろす。ふれあった薄い皮膚だけで弟の熱を感じた。ぬくもった弟の匂いが目蓋の内を熱くする。
 ふざけたことをしている自覚はある。身体を休めている弟にするべきことは、これではない。
 なにからなにまでひとりでこなし、当たり前にひとりで暮らす弟が、疲れていないはずがない。それだのに、気まぐれのように彼の下へ足を運ぶ氷室をもてなして。彼を気遣うべきはこちらだというのに。
 特別なことなど望んでいない。火神の幸福だけを願っている。共に暮らすことができれば彼の負担も減るのだろうが、それにはあと数か月高校生であることを全うしなくては。
 わずかな時間にうたたねをする彼を静かに休ませてあげたいと思う。だが、氷室はこうして彼の眠りを妨げていた。閉じた唇の内側で不埒な鼓動が落ち着き場所を探している。
 彼をいたわりたいと思うのに、その先がしたい、なんて。
 そこだけ同じ熱を宿したのではないかと錯覚するほど、長くふれていた気がした。彼の目を覚まさないよう、重ねた時と同じ静けさで唇を離す。火神は氷室の行為に気のついていない様子で、変わらず眠っている。氷室は火神から身体を起こすと、外したはずの指輪を求めて胸元の生地を握りつぶした。

「駄目だな、俺は……」

 濃いために暗い紅の睫毛が瞬き、鮮やかな瞳が氷室を認めた。火神は間近に迫る氷室を気に留めることなく、寝起きゆえの潤んだまなざしを向ける。氷室を確かめるために出した声は、綿を詰めたようにくぐもって幼い。

「ん……タツヤ……? あ、わり、寝てた……風呂あがったんだな、タオルの場所わかっ」

 目を覚ましたばかりだというのに氷室を気遣うばかりの火神の口を軽くくちづけて封じてしまうと、産毛のやわらかな頬を撫でた。抑え込んでいたものが弾けてしまったのか、二度目のキスはためらいを感じる間もなく身体が動いた。
 弟から氷室への気遣いを追い出してしまいたい。彼はもっと自分のことを考えるべきなのに。かといって火神の意識から氷室が絶えてしまうのを面白くないと感じている。愛情とはひどく身勝手で傲慢なものだと氷室は思った。

「タイガ、お風呂に入ったら今日は寝よう。明日の準備は俺がやるから。少しはお前にいいところを見せたいんだ」
「タツヤだって疲れてんだろ、いつもやってることだから平気……」
「タイガ」

 そのつもりはなかったが、有無を言わさぬ調子に火神が黙った。きまり悪く目をあわせない弟の頬を言い聞かすように撫でる。

「俺の前では甘えてくれ。甘えていいんだ」
「……タツヤ」

 頬に手を添えたまま、今度は思いやりを込めてくちづけた。開いた唇の先で舌を向ければ、同じように口を開けた火神の舌が氷室を招く。鼻先がすれあい、濡れた前髪が彼の額に貼りついた。かがめた腰を忘れて弟をソファへ埋める。首筋からうなじへ、弟の手触りを味わいながら、くちづけを深くする。

「ん……ふ」

 弟の漏れるそれが氷室の鼓膜をくすぐり下腹を熱くさせた。弟は氷室の好きなようにさせている。氷室は自制が効く最後の一線で踏みとどまり、唇を離した。夢から覚めることを厭うように火神が氷室を熱っぽく見つめている。身を引こうとした氷室に反して、火神は寝巻きの裾を引いた。

「タツヤ、俺……ふろあがったら、その……タツヤと……あれ……。昨日しなかった、から」
「タイガ……。身体はいいのか? タイガに無理はさせたくない」
「俺が起きるまでタツヤが隣で寝てくれたら、ふきとぶ」

 寝巻きの裾をしっかりと掴んだ弟は、氷室が首を縦に振るまで離さないつもりなのだろう。火神がにごした言葉を思って、氷室は払い難い誘惑に駆られた。
 弟のために己を抑えなければと強いているのに。火神といると、こちらの忍耐を試されている気がする。
 氷室は滑らかな頬にくちづけた。弟を嗜めるための軽いそれ。だが、一晩だけならば弟の望みを叶えても罰は当たらないだろう。

「やめたくなったら言ってくれ。俺は何よりタイガが大事だから……。さあ、お風呂にいっておいで。ベッドで待ってる」

 頬から顎にかけてをやわらかく撫でてやる。火神は一度ぱっちりと瞬くと、まばゆい日差しのようにほころんで頷いた。