たったひとりのあなたのために



 たとえば固くなった瓶の蓋を回すのだとか、錆びて噛み合わない扉をこじ開けるのだとか。そういったものに似ている。経験というささやかなコツに従って力を籠めれば、望んだ通りにぱきっと折れる。自分と同じくらいの太さであれば、火神にとって他人の頚椎を折るのは造作もないことだった。
 頭部を支える首の骨は丈夫なように思えて案外脆い。きっと普段から肩こりや眼精疲労で痛めつけているのだろう。
 たくあんを齧るような軽快な乾いた音を鳴らせば、脱力した男の首は綿が寄った人形のようにぷらりと支えを失う。腕の中で息絶えた生ごみを用意していたポリバケツに押し込んだ。終電の運行も終わった真夜中の路地。ガールズバーを後にしてしたたかに酔っていた男を、街灯のないビルとビルの隙間に引きずり込むのは簡単だった。
 今年の十月三十日は満月だから、雑居ビルの隙間から円に近づく月が伺える。火神は被ったフードの下から目を細めて見上げた。一片も欠けたところのない満月のまばゆい光が兄の誕生日に降り注ぐのだと思うと、ふわふわと心が慈愛で満たされていく。
 兄はあらゆるものから祝福されなくてはいけない。森羅万象が兄を否定するのであれば、火神が仕組みを変えてやればいい。
 すっかり満杯になったポリバケツを用意していた台車に置く。蓋を閉めてしまえば、飲食店で出た生ごみが入っているようにしか見えなかった。
 職務質問にだけ気を付けなくてはならないが、繁華街の外れをオフィス街に向けて細い路地を通るのだから、おそらくは切り抜けることができるだろう。不審者と疑われるようなことがあれば、それこそ運が尽きたというもの。兄の誕生日を祝えないことだけが悲劇だ。
 酔っ払い特有の騒がしい会話が表通りから近づいてくる。火神は台車を押して暗い路地へと紛れた。
 
 旬だというのに今年のサンマも高い。焼き上げた厚い身に箸を通したいというのに、気軽に手を出せる値段ではなくなってしまった。ひとりで食べるにはどうにもカゴに入れる勇気が出ない。今度、兄が来るときに二尾買ってみようか。
 年が明ければ、店頭に並ぶタラの切り身と白子で湯豆腐の季節だ。昆布を敷いた出汁で煮込み、ポン酢でいただきたい。暑さが遠ざかるとどうにも食べ物が上手い。旬のものをどう料理するか、考えるだけであっという間に時間が過ぎる。
 目的地であるビルの裏口に台車をつけると、借りている鍵でドアを開けて中に入った。入口そばのスイッチで明かりをつければ、並べられたいくつもの水槽で淡水魚が鱗を光らせていた。
 業務用のエレベーターで地下に下りる。エレベーターは広く、火神はいつも病院を思い出した。病院のエレベーターはストレッチャーを運ぶので、縦にも横にも広いのだ。
 地階は誰もおらず、真っ暗な闇が広がっている。火神は間取りを思い出して、エレベーター近くのスイッチをつけた。長い廊下が蛍光灯の明かりで白々とまばゆい。台車のタイヤが床を転がる音が、ひとりきりの空間によく響いた。このビルの地下は使用していない部屋であれば基本的に鍵がかかっていない。火神は準備が整えられた一室を開け、台車を運び込んだ。
 人がいないため、どこもかしこも真っ暗だ。ドア近くのスイッチを押して蛍光灯を照らせば、床にグレーチングで覆った排水溝を用意した殺風景な一室にぽつんと手術台が置いてある。手術台は何かと便利ではあるものの、今日は使う予定がない。
 地下のためか冷え込んでいる。火神は壁に取り付けられたスイッチで暖房を入れた。今回は死体の細工を凝る必要もなく、使う部位も少なく、ごみの分別は不要と非常に楽な作業だ。費やす時間も少ないだろうから、暖房をつけても部位の傷みが激しくなることはない。
 ブルーシートを敷いて自宅のリビングで解体することに抵抗はないものの、風呂場で作業するのは嫌だ。水が使えて排水も楽だと理解しているが、全身を湯につける場所で死体の処理を行うのは不衛生だと感じてしまう。経済的に自立した暁には、専用の部屋か納屋が欲しい。書斎とは異なる趣味部屋というやつ。高温で一気に始末するための焼却炉も欲しい。楽しみは広がるばかりだ。
 空調から暖かい風が吹き始める。火神はパーカーを脱いで長袖のシャツ姿になり、その上に膝下までを覆う長いレインコートを着て、フードを被る。スニーカーにはシューズカバー。靴底が汚れるのはやはり避けたい。腕まで覆う厚手のゴム手袋をしっかりと穿いた。いろいろと試してみたが、この格好が最も血を被らなくていい。さながらクリスチャン・ベールの『アメリカン・サイコ』のようだが、理に適っているのだから気にしたら負けだ。
 
 ポリバケツの蓋を開けて、押し込んだ男を引きずり出す。脱力した人間が重いことを火神は嫌というほど知っている。両脇を掴んで床を引きずった。とはいえ、高い手術台に乗せる必要はない。切り株で作られた巻き割り台に首を乗せる。それは何らかの液体でどす黒く変色しきっていた。
まだ死後硬直が始まっていないため、折れた部分が皮膚の内側で奇妙に歪んで盛り上がっていた。破れた血管から流れた血が内部に溜まったため、皮膚は鬱血し一部がどす黒く変色している。火神は用意された斧を振り上げると、一息に下ろした。暗く濁った血が破けた皮膚と肉の間から溢れていく。あらかじめ折ってしまったのがいけなかったのか、うまく力が伝わっておらず、うなじ側の肉がまだ切れていない。ナイフで切ってしまってもよかったが、面倒だったので火神はもう一度斧を振りかぶった。刃が台に当たる確かな感触に安堵する。処理や細工に用いるこまごまとした道具を、こうして借りることができるのは有難かった。
 使い勝手の良いものを用途に合わせて揃えると、どうしても場所を食う。ここであれば、幅広い種類の工具を試すこともできるので、購入の参考にもなった。
 
 身軽になった頭部を抱えて、切り口を確かめる。ねじ切らずに切り離すことができたので、でこぼこにならずに済んだ。必要な部位は確保できたので、あとは単純にごみの始末をするだけ。
 血に染まった台の上に四肢を乗せて斧を下ろす。これは単にごみ捨て場に運びやすいように小さくしているだけだ。
 服を着せたまま直接刃物を振るうのは、ホラー映画に出てくる殺人鬼になったかのようで新鮮だった。普段は衣服と生ごみを分けている。後始末の手間を考えずにごみの処理をできるのがこれほど楽だったとは。火神は半ば本気で処理機の導入を検討した。
 
 足を切り落とした蜘蛛や、羽をもいだ蜻蛉のように、残った胴体を台車に乗せた盥に入れる。内臓と骨が詰まっているために、さすがに重い。レインコートの内側で熱気が籠って結露が生じていた。
 腐りやすい内臓と血はさっさと出してしまうのが常だが、今回はあえて肉の内側に仕舞ったままだ。ここで出してしまうとぱらぱらと零れてしまって、拾い集めなくてはならなくなる。
 同じ脊椎動物であるからして、皮を剥いで中を開けば、鶏や豚や牛との違いはほとんど感じない。その個体に対しての罪悪感を得るかどうかの違いだろう。
 ゆえに火神にとってこの行為は、スーパーで購入した鶏もも肉を唐揚げにするのと同じ意味しか持たない。料理が娯楽というのであればこれも娯楽であろうし、料理が生命維持に必要な行為というのであれば、これも同じといえる。
 抑えることはできても、その皮膚の下で情動が解き放たれるのを待っている。文化的ともいえるし原始的ともいえる行為だ。
 
 雑なパズルのピースをすっかりまとめてしまうと、火神はふたたび台車を動かした。目指すは廊下の突き当りにある奥の部屋。ここはごみ処理のための設備がそろっており、遊び終えた後は誰でもここにごみを運んで片付ける決まりだ。
 当然のように真っ暗な部屋の明かりをつけ、鎮座する小型チョッパーの電源を入れる。中年の男性が渋々腰を上げるような稼働で、勿体ぶるようにベルトコンベアが動き出した。両手で抱えた腕やら足やらを乗せて見送れば、内部にある刃で細切れにされた挽肉がドラム缶に用意されたコンポストへ積まれていく。微生物が豊かな土の中で処理することによって、栄養豊富な腐葉土になるらしい。購入したいくつかの山に撒きに行くそうだ。やはり広大な私有地は持っておいて損はない。
 どうにか抱えて乗せた首なしの胴体が機械の向こうで細切れになったのを確認して、火神はようやく息をついた。作業の大部分を何事もなく片付けられたことが、ぬるま湯のような眠気とともに立ち昇ってきて、思わず大きな欠伸が出る。
 午前様は確実だった。しかし、火神にとってはこれから行う工程が肝要である。両肩をぐりんぐりんと回して伸びをすると、機械に背を向けて部屋へと戻った。
 
 髪の毛を残したままの頭部を鋸で輪切りにする。剃ってしまった方が明らかに合理的だが、今回は素朴さを求めてあえて残した。髪の毛を剃ってしまうと頭部の持ち味である個性が失われてしまい、面白みがなくなる。わざわざ顔を用いるのだから、素材の良さを生かすべきだ。
 刃が滑ったり、髪の毛が無駄にちぎれてしまったりと手間がかかったが、どうにか開頭する。見慣れた髄膜がオブラートのように脳を包んでいた。まだ温かく、ぷにぷにと手触りはよいのだが、スプーンでごっそりとこそげ取る。今回必要なのは臓器や器官ではなく骨格だ。ゆえに、雑草を引き抜くように眼神経ごと眼球も取り除いてしまう。脳は六割が脂肪、眼球は九割が水分で構成されている。やわらかいのも納得だった。
 眼窩から大後頭孔までをすっかり繋げてしまえば、ひとつの空洞が出来上がる。そのままでは明かりが上方の開口部からしか漏れないため、頭部を抱えてナイフで上顎を裂いた。
 火神が拵えているのは材料こそ異なれど、ハロウィンで軒先に飾られるランタンだ。上部を開けて中身を取り出し、表面に飾りを凝らして、蝋燭の明かりを楽しむ。カボチャをくりぬくのも、人間の頭をくりぬくのも、やることはあまり変わらない。違いを上げるとするならば、趣味の問題だろうか。火神はお化けカボチャで作るランタンも、人頭で作るランタンもどちらも好きだ。
 微調整は火をつけてから行うこととし、ひとまずホースの水をかけて血や脳のかけらを流した。汚れを落とすと、そこそこ見栄えのするハロウィンのランタンが姿を現す。秋口とはいえ腐敗には用心しないといけない。ドライアイスを詰めた発泡スチロールの容器に収めると、ガムテープで封をする。
 次の利用者のために台車や巻き割台を水できれいに流して、火神はビルを後にした。借りた鍵がポストの底に届く金属のそれを聞いて、家路につく。スマートフォンを確かめれば時刻は午前三時過ぎ。職務質問に遭うと面倒だが、自宅までは歩いて四十分程度。タクシーは使う気にならないので、真夜中の散歩と洒落込むことにする。
 両手で抱える必要のある生ものを抱えていると、それがまるでケーキのように思えてきて足取りが軽くなる。誕生日を祝うための代物という点では同じだった。
 

 
 今年の兄の誕生日は平日であったから、その前日である日曜にお祝いをすることにした。気楽に顔を合わせることのできる距離ではないのは、やはりもどかしい。いつか日付を超えたその時に直接誕生祝いを伝えたい。
 兄は夕方に部屋を出なくてはならないので、少し早めの昼食の準備をする。地元を離れてから兄も久しいのではないかと、メインは牛のステーキにした。この日のために用意した鉄のステーキ皿で厚い身にじっくりと火を通す。兄はよく火が通っている方が好きなので、硬くならないよう火加減を調節するのに苦労した。
 エビとブロッコリーをどっさり入れたカクテルサラダに、炊き立ての白米。スープはあっさりめにしようと、コンソメで味付けをして玉ねぎをとろとろになるまで煮た。
 品数を多く拵えたつもりはなかったが、食卓に並べればそれだけでテーブルが埋まってしまう。火神は兄のリクエストであるカボチャのタルトを冷蔵庫に残した。地元ではハロウィンの前日であっても、誕生日のケーキにパンプキンを用いたケーキは用意しない。クリスマスに誕生日を迎えても、誕生日祝のケーキとアップルパイは別だ。
 ゆえに、兄の誕生日の翌日も兄の家に招かれ、残ったケーキとともに真新しいパンプキンタルトを食べた。甘いものが得意ではない兄はいつも残ったケーキを火神に譲り、こっそりジャーキーを齧っていた。
 生クリームをこってり乗せたケーキでなくてよいのかと兄に問えば、パンプキンタルトの方が食べたいと答える。ハロウィンになればどこのマーケットでもベーカリーでも用意されるパンプキンパイやタルトを日本ではあまり見かけないからだろう。ハロウィンのタルトは余所行きの店に入って恭しく求めるものではない。
 ランタンを置く場所がないので、食卓の隣に折り畳みテーブルを開いて据える。誠凛の部員が訪れる時に使うものだ。ガラス皿に乗せたランタンを飾る台はスイッチを入れれば自動で回転するものにした。火を使っているというのに手で回した際に転げ落ちてしまったら、目も当てられない。
 死後硬直のおかげで舌が固く平らに沈んだのは嬉しい誤算だった。中程で蝋を垂らし蝋燭を立てれば、それなりにランタンとして機能する。眼球を失ったふたつの眼窩から橙の温かな光が漏れているのを見ると、いっそ鼻も穴を通せばよかったかと今更のように思いつく。鼻孔を破かずに小さな穴を開けるのは手間がかかりそうだ。
 身元を示すための免許証を添えれば、兄はくすぐったそうに指さした。
「お前、また俺の誕生日を命日にして。悪い子だ」
「えー。じゃあ今年で終わりにするか?」
「お前が無茶しないなら続けてほしい、かな」
 兄は膝をつき、色とりどりのピクルスを眺める時と同じ眼差しをランタンに向けた。上機嫌で気づいているのかいないのか、口元が勝手に弧を描いている。
 喜ぶ兄の姿を前にすると、火神もたまらなく浮足立つ。エプロンを外して腕の中で畳んだ。
「気に入った?」
「ああ。ちゃんと大人の男を相手にして、偉いな」
「首の骨、一発で折れるようになったんだぜ」
「すごいじゃないか。タイガはやればできると思っていたよ」
 兄に褒められると心の柔らかいところに光が差す。自分でもどう手懐けていいのかわからないそこを、兄は容易く見つけて掬い上げる。ずっと甘やかされていたい。すべてがどうでもよくなるくらいに。
 料理が冷める前にふたりで手を合わせた。そろそろ実の家族と食卓を囲んだ回数より、兄や兄の家族と共に食卓を囲んだ数の方が多くなっているような気がした。
「いただきます」
 様々なスパイスとともに焼けた肉の香ばしい匂いが部屋を満たしていた。水分を持った肉がじゅうじゅうと食欲を掻き立てる音を立てて、切り分けられるのを待っている。
「十八歳のお誕生日おめでとう」
 コーラで満たしたグラスを持ち上げれば、兄は紅潮した頬を隠すことなく火神に向ける。
「ありがとう。これでまたタイガより年上になった」
「来年の八月、また同い年になるから待ってろよ」
「ふふ、楽しみにしている」
 フォークとナイフで切り分けられた肉が唇の向こうへ消え、咀嚼とともに顔を綻ばせるまで、火神は兄に注視していた。今度も兄の舌に合うものを作れたのだという安堵に胸を撫で下ろす。食事を摂る兄の所作は、まるで琴でも爪弾くような優雅さがある。火神はそれを見るのが好きだ。
 幼い頃の兄に気を留めたことはなかったから、再開するまでに身につけたものなのだろうか。特に、ナイフとフォークを使う姿は様になっている。ホットドッグや焼き鳥を頬張るような豪快な口の開け方も好ましいが、銀食器を扱う様は逆立ちしても火神には真似できそうにない。
 料理を詰め込んだ両頬を揺らしながら、とりとめのない会話をした。先週から始まった今年度のレギューラーシーズン。先日終わった体育祭や、秋休みに行う温泉合宿。購買で新しく発売されたカキフライとオリーブの惣菜パンと、黒子の文筆活動。兄は相槌を打ちながら、興味深そうに耳を傾ける。
「パターソンさんの家の犬、覚えてる?」
「ああ、あの煩い犬」
「タツヤが殺してくれたんだよな」
 視線を皿に落としたまま、兄が鼻で笑った。兄と出会った年に、初めて兄が火神のために手を汚した犬だ。忘れるはずがない。
 幼い頃に犬に噛まれた経験から、犬を前にすると今でも身体がこわばったり、気絶しそうになる。コートへ行く通り道の一軒家で飼われていた犬は誰にでも吠えたが、特に火神を目の敵にした。まだ十歳にもなっていない頃の出来事であったから、足がすくんで脂汗ばかりかいていた。
 半狂乱になって嗚咽する飼い主と、乾いた血に塗れた犬小屋。兄が手を下したのだと知ったのはそれから一年後、兄が口を滑らせたから。
「だって、お前が通るたびに吠えて煩かったんだ。仕方ないだろう」
「スコップで頭の骨が砕けるまで、何度も振り下ろしてくれたって」
「恥ずかしいな。今だったら川に流すのに」
 切り分けた肉を口にしながら、謙遜混じりでで兄が答える。火神の熱を帯びた視線に気づいた兄が、ふと眼差しをこちらに向けた。火神を安心させるように柔らかな微笑を浮かべる。
「タツヤの真似してばっかだけど、タツヤは俺の手本だから」
「俺だってうまくはないけど、落ち着いたら一緒に楽しもうか。帰る楽しみがまた増えた」
 兄が手を差し出す。火神はじゃれるように指を絡めた。兄の手は温かく、いつまでも触れていられる。
 バスケットボールのために兄に倣って丁寧に整えた爪先は、兄のそれとよく似ていた。