惚れた腫れたは当人に任せましょう

木リコ+日リコで主に下半身で困る相田リコが氷室に愚痴を話している間、兄を待つ火神は青峰を贄に精神衛生を保つ



「タイガとファックしたい」

 飲み干したグラスに溶け残った氷をいたずらに傾けてつぶやいた横顔は、誰でも見惚れるものだった。
 造形の整った輪郭と容姿は間接照明を浴びて際立っている。彼が好むビールではなく度数の高いウイスキーがグラスの底を琥珀色に染めているのが、あらかじめ仕込まれた小道具のように彼の魅力を誘う。グラスをもてあそぶ指先はあらぬ想像を掻き立ててしまうほど蠱惑的で。
 今宵、同席したあらゆる人間の心を許すほどに氷室は一夜限りの相手として完成されていたが、その実、彼は弟のことしか考えていなかった。
 氷室辰也が身体も心も許す人間はこの世で火神大我ただひとり。
 今すぐにでもこの酒場を出てスウィート・ホームへ帰り、お楽しみを心ゆくまで享受する。頭の中の九割が「帰りたい」でそのうちの八割が「タイガとセックスしたい」。それらは、ぴかぴか瞬くやかましいネオンサインを発している。
 手持ちぶさたでグラスを揺らしながら、脳の大部分で激しく犯される己を想像した。大脳新皮質と灰白質が交互に刺激されて氷室だけにとっておきのシネマを見せる。
 両膝を肩につくまで掲げられて、腰が蝶番になってしまったかのように真二つに折り曲げられて、下から容赦なく突き上げられたい。弟に貫かれる振動で骨盤が歪んでしまうほど。
 弟が膝を曲げるのに飽きたら今度は横に転がされて、後ろから貫かれたい。互いの体液でぬめる、慎みをなくした穴へ迎えた弟を、今夜は一滴残らず味わいたかった。
 氷室の唇は自然と悩ましい吐息を漏らす。
 頭蓋骨の内で快楽を甘受し声の赴くまま喘ぐ自身はまさしく氷室の願望だった。
 早く帰ってファックされたい。何度もキスをして唇がふやけてしまうまで。腫れたペニスをこれ見よがしに握られて、耳元で詰られたい。弟の親指の腹で濡れる鈴口を擦られるのは、耐えがたい悦びだった。
 伏せた睫毛に陰が落ちる。氷室の内を知らない人間には、何とも物思いに沈む青年に見えただろう。早くセックスしたい。いますぐに。
「氷室君」
 隣から注がれる批難の瞳をかるくいなし、氷室は酒瓶の並ぶカウンターを眺めた。
 ラベルに貼られた酒の名前を、眠気覚ましのように目で追った。弟と寝る習慣がついたおかげで、異性にはまるで興味がない。弟の性器を弄ぶ方が今の氷室には何よりも魅力的だった。
「酒の席だ。まず相田さんには欲情しないから大丈夫」
「私も氷室君と寝る予定はないわ」
「言わなくても相田さんは木吉専用。日向もだっけ? 同じものをもうひとつ。ありがとう」
 バーテンダーにグラスを掲げ、酒が来るのを待つ。そこでしばらくぶりに今夜の同席者を向いた。
 仕事終わりで化粧を直さなかったのだろう。それとも化粧を直すほどの相手ではないと思われているか。どちらでもよかったがそれが彼女だ。氷室にとっては遠慮のいらない数少ない異性であり、氷室に気を遣わない希少な異性である。
 薄化粧の、脂で照った鼻の頭は照明のおかげで目立たなくなっている。仕事に励んだ後のこの顔に欲情する相手と関係を続けているのだから、彼女は恵まれていた。需要と供給が合致している。それこそ、供給が追いつかないほどに。
 氷室は立てた人差し指を指揮棒のように振って彼女へ説いた。そもそも呼び出されたのはこちらだ。
「君と飲むだろ。君の愚痴を聞くだろ。主に下の方のね。木吉の執拗さと日向の淡泊さを聞いた俺は帰ってタイガとお清めファックだ。……今日はどこでしようかな、ベッドもいいけどベランダもいい。タイガと相談しないと」
「氷室君が帰ったら塩を撒くわ。玄関には盛り塩をする」
「ひどいな、俺が君に何かした? 気分を害するような……ああ、PMS? いつかリアーナのリップを贈るよ。ひとめで周りがわかるようにね。一度買ってみたかったんだ、あれタイガに似合うと思わない?」
「遠慮するわ。氷室君のファンに睨まれたくないし」
「嘘だよ、タイガは発色のいい赤が似合う。あれはちょっと、生理初日って感じがしてね……」
 相田がカクテルをひと息に飲み干した。パイナップルの刺さったハワイな配色がきれいさっぱり消えたのに、氷室が気づくことはない。
 並べられた酒瓶の残量がいくつだとか、隣に座る相田の存在だとか。いわゆる『弟スイッチ』の入ってしまった氷室にはすべてが霧散して遠い。弟である火神大我ひとつですっかり夢見心地の、依存性の高い脳内麻薬に侵されている。
 ホームセックスを耐えた反動は大きかった。"Fuck me!" で動かしていた脳味噌の八割は本格的な現実逃避へ移行して、いまや理性は最後のフロンティアというべき彼方へと追いやられている。
「タイガは赤が似合うんだ。黒も。紺もいい。白は透けてしまうけど、それがまたよくって。何を着せてもセクシーなんだ。あ……今日はどのパンツだろう。紐も好きだけれど、はしたないバンドもよくて。あ、ありがとう。こんなの頼んだかな、サービス? 俺をイメージした? へえ、ああそう、うれしいよ。さくらんぼがタイガみたい……」
 硬派なウイスキーグラスの代わりに置かれたのは、円錐を逆さまにした洒落たカクテル・グラス。淡いピンクの海の底で、真っ赤なチェリーが沈んでいる。
 バーテンの彼も正常な判断力を失ったのか、相田の前にも同じものが置かれていて、氷室はガラスの脚をつまむとグラスを彼女へ向けた。相田へ動揺する間も与えず氷室は右目をつむる。
「かんぱい」
 弟に酩酊した頭で挙げられた祝杯はここにはいない弟に捧げられたものだったが、そうしたあらましを解説する親切な人間がいるはずもなかった。
 ウイスキーから変わってシロップを舐めるようにちびちびと味わうことにした氷室は、舌に伝わる度数に気分を良くした。親しみやすい見かけと飲みやすさに反して気楽に杯を重ねられるものではない。いわゆるお持ち帰り用カクテル。
 外も中身もタイガそっくり。氷室はため息をついた。湿った熱い吐息をこぼす姿は悩ましく、この店で氷室に見惚れない人間はいよいよ相田のみとなった。だからこそ、氷室はこうして相田と杯を交わしていた。
「さてと。それじゃあ聞かせてもらおうかな。三週間の間に何があった? 相田さんの膿を出してやらないとね。そのために俺を呼んだんだろう」
 足を組んで頬杖もついて、氷室にとっては万全の、他人の話を聞く姿勢を取る。その態度に相田は氷室とは比べものにならない重いため息をついた。
 怒鳴りを封じた口で諦観に彩られた文句を投げかける。
「ねえ、いつも思うんだけど。その性根の悪さが滲み出るウォーミングアップを省略できない……?」
「無理だね。ボランティアだし、まずボランティアだ。無償の愛なんだからケチくさいことを言わないでほしい」
「火神君があなたみたいにならなくて本当によかったわ……」
「なるはずないだろう。俺好みに育てたんだから」
 あまりの戯言に一笑してカクテルを舐める。混ぜられた酒の種類をつい舌で割り出そうと探ってしまった。癖のない日本酒とレモン、それから。
 燻すような視線を感じて彼女に向き直った。相田ときたらグラスに口もつけずに氷室を見つめている。
「なに、俺の顔に何かついてる?」
 
 ◆◆◆
 
 テーブルに伏せたスマートフォンは沈黙を守り続けている。バイブレーションと着信音の合わせ技を設定したために、着信があればすぐに手に取ることができた。
 事実、火神は兄専用の着信音が一音でも鳴り出せば、すぐに通話ボタンをタップできる。氷室辰也からの着信を取る技量においてならば、彼は誰にも負けない。まず、火神以外必死になって氷室の着信を待つ輩がいない。
 リビングのソファに腰掛ける火神は、深刻な面持ちで炭酸の揺れるグラスを握りしめていた。着信があればすぐに氷室を迎えに行くためアルコールを控えているし、何より火神は酒の勢いを借りるということができなかった。兄弟そろって健康で強靱な肝臓を授かったために、ちょっとやそっとの本数ではほろ酔いにもなりやしない。よってこうしてコーラを友に悩みを打ち明けている。
「あのさあ……俺すげえこええんだよ……。タツヤ抱き潰しちまいそうで、ヤるのこわくてさ」
 青峰は突っ込んだ小指の爪で耳の穴をぐりぐりしていた。当然己の耳だ。このまま火神の声だけ聞こえなくならないかと願い続けているが、なかなか神は聞き入れない。
「死ねや」
「タツヤ、あんなにほっそくて手の中に収まっちまって、や、女みてえっていうんじゃなくてさ、タツヤは細いだろ、だから、俺みたいなゴツイのが、ちんぽぶっさしたら壊れちまいそうで……!」
「ん、死ね」
「でも、タツヤはそれがいいって、最高って言ってくれて……でもそれって、俺が甘えてるだけなんじゃないかって。だけど、タツヤにタイガって呼ばれると全部吹き飛んで……畜生っ、タツヤ……好きだ……ッ!」
「死んでこい早く。な、死ね。そのグラスに頭叩きつけて死ね。どさくさに紛れてのろけんのやめろ」
 兄である氷室辰也で脳みその十割を動かしている火神は耐えられないとばかりに俯き、頭を掻きむしる。
 耳垢を追いかける青峰は飲みかけの缶ビールへなかなか手が伸びなかった。もう少しで取れそうな耳垢とぬるい飲みかけのビールであれば、当然耳垢を優先する。
 兄が帰ってくるまで暇なら来いという火神の誘いは、うまい飯と求めれば酒と快適な空間での怠惰を意味している。ゆえに青峰は興味のないのろけだか愚痴だか悩みだかの相づちを、ほろ酔いの片手間にしているのだった。火神には青峰が聞いていようがいなかろうがは二の次で、誰かを相手に話すことができればそれでよかった。まさしく需要と供給が一致している。
 ようやく爪の端に望んだ重みを得た青峰はそろそろと指を引き抜く。そうして爪に残った過去をふうっと吹き飛ばした。ひとりで世界の終わりに浸っている火神に幾度死ねと浴びせようが、青峰の良心は痛まない。青峰が死ねと言ったところで素直に死んでくれる奴ではなかった。
 その証拠に。膝を開いてどっかりとソファに座り、頭を抱えてこの世の終わりを体現していた火神は、青峰が目を離した隙に恥じらいと喜びに染めた頬を露わにしていた。まさしく恋する弟。青峰が送った度重なる死ねコールへの返答がこれだ。
「……タツヤの帰るコール聞くまでは、死ねねえ……あータツヤぁ、はやく電話くれよおぉ……!」
「ひとりで待てや」
「暇なんだろ」
「暇じゃねえよ」
「暇だから来たんだろ。青峰が暇してんのに、なんで俺がひとりで待たなきゃなんねえの? 帰って寝るだけなんだろ? それならタツヤが帰ってくるまで付き合うのが当然だろ」
 頬の紅潮すら消えて真顔で問い詰められる。冗談ではない証拠に目は微塵も笑っていなかった。ふざけた眉をしているというのに、こちらは全く笑えない。
 胃へ収めた缶ビールの酔いが一瞬で抜ける。理不尽な理屈に付き合わされていると理解していても、この男の「普通」を聞かされるのは肝が冷える。互いにゲイではないパートナーでもないただの兄弟だと言い張る彼らのどれほど耐えがたい惚気を聞かされようと、こうして第三者へ向けるひとことで、この男がずれていると何よりも感じる。
 いやな脂汗がこめかみを覆った。青峰が怖いもの。一、本気で怒ったときのテツ。二、さつきの本格フルコース料理。三、青峰相手にスイッチの入った火神大我。
「こういうときマジで怖えから……やめろ、マジで」
「こわくなくね? つか、何がこわいのかわかんねえ……。さやえんどう食う?」
「食うけどよ……」
 素揚げして塩を振っただけのシンプルなつまみに手を伸ばす。そうしてもごもごと顎を動かしていれば、火神の関心は氷室へ戻っているのだった。
「たーつーやー」
 いよいよ兄が恋しいのか、そばにあったクッションを抱えて顔を埋めている。ひよこのくせに二重をして、しかも右目の下にほくろがあって、しかも灰色の羽で。心持ち綿が少ないそれはクッションというよりぬいぐるみで、お世辞にもかわいいとはいえなかった。ひよこのくせに前髪まであるような気がする。
 青峰と変わらない身長と体格の年頃の男がするには怖気を抱く光景ではあったが、真顔で問い詰められるよりはマシだ。そう思えるようになってしまった環境に置かれる己が、実のところ最大の恐怖ではないだろうか。
 あとひとくちで終わる缶の残りを放り、新しい缶に手を伸ばした。すべて火神持ちなのだから構うものか。火神か氷室か、どうせこの部屋の住人の口に入るものなのだから。
 新しい缶のプルトップに指をかけ、ちいさな穴を開けた。ぷしゅり。アルミにできた裂け目から音が吹き出る。そこで忍耐の糸が切れた。
「あぁああ」
 目頭に手を立てた青峰は低く叫んだ。顔をひよこに押しつける火神と異なり、天を仰ぎ見るように。青峰は叫んだ。帰りたい。
 
 ◆◆◆
 
 くさくさした気分を和らげるための一口を味わって、氷室はグラスを調理台へ置いた。ワイングラスに注いだ赤紫のスパークリングは、すでに氷室の喉を通過して胃の中だ。こういうときはがぶ飲みしても罪悪感を抱かない、値段も喉越しも酔いも手頃なワインを飲むに限る。氷室は弟のために色づいた頬で微笑んだ。親しみのこもった眼差しを火神はボールのように受け止める。
「タイガとファックしたい」
「……してえの?」
「どう思う? いまお前の目に映る奴は、お前とヤりたがってる?」
「まずタツヤの目に映ってるヤツが、ヤりてえって急かしてる」
「おやまあ。どんなふうに?」
 広いシステムキッチンも男ふたりで並べば狭くなる。火神の返事に好奇心を露わにした氷室の手は引き寄せられた。天鵞絨を思わせる肌を貼った指の間に、氷室を知り尽くした指が割って入り込み、絡めてしまう。きゅっと火神がつかまえてしまうのを、氷室はバースデーケーキを待つように望んだ。弟が得意げにおどける。氷室には軽やかな弟が何よりも好ましかった。
「手をつないで、そのまま腕の中に閉じ込める」
「わお」
「髪に鼻を埋めて、ダンスタイム」
「ステップは任せろ」
「そのあと、背中に生えた天使の羽を確かめて、キッチンでスクランブルエッグを作っていいか聞く。熱く湿ったエッグをフライパンでかき混ぜていいかどうか」
 かるく、その実しっかりと。氷室を抱き寄せた火神の手が、寝間着代わりの薄いシャツ越しに背中を撫でる。すこし浮いた肩胛骨の輪郭をゆびさきでつっとなぞられて。
 そちらはその気で、こちらもその気にさせる、親しんだボディランゲージ。下手な例えは今夜望む営みを陳腐に色付けるも、ふたりにはそれすら楽しめた。風呂あがりの身体でも身につける鎖の先がまるく光る。
「菜箸で? フライ返しで? 夜のクッキングが済んだらベッドで食べたい。お楽しみは長く続いた方がいいだろ」
「腹がふくれるまで食わせるぜ」
 誘い方と誘い相手を変えただけのお決まりの戯れに、今夜はどうも上手く乗れない。口を互いに塞がなければいつまでもつづくおしゃべりをやめるのは、その先を早く味わいたいから。
「タツヤ」
「タイガ」
 期待に潤んだ瞳がゆるやかに隠れ、代わりに開いた唇はすぐに互いを見つけ出した。氷室がつまさきを立てなくても良いように、火神が首を痛めてしまわないように。互いに没頭できる姿勢で舌を絡める。注がれる唾液を甘いと感じられるのは、探ったエナメルをいつまでも舐めていたいと思えるのは、あとにもさきにもひとりだけ。
 深く開いた唇で互いの粘膜に恋をした。回した手で硬く短い髪を撫でていく。弟の手が髪を梳くように頭皮をくすぐって、閉じた目蓋が揺れた。息が止まるまで夢を見続けられることだろう。
 
 重ねた唇を深くし、キッチンのど真ん中で互いに溺れる成人男性ふたりを前に、タオルを首に掛けたままの青峰は物を言う気が起きなかった。冷凍庫にあるアイスクリームは氷室のもの以外何を食べてもよいと言われているので風呂上がりにありついたのだが。ひとくちふたくち。スプーンをくわえたままソファへ移動しようとしたらこの有様。この部屋の持ち主二名の親密な、あまりにも濃密なやりとりに茶番劇から付き合わされている。キッチンの入り口は出口と兼用で、ちょうどふたりが塞いでいる通路を抜けなければ廊下にもソファにも逃げられない。兄弟は爪の先ほども青峰の存在を知覚していないことだろう。かといってこのふたりの背を押しのけてソファへ向かう図太さを生憎青峰は手放していた。
 
 何を言われようと帰ればよかった。火神のとっておきのアイスクリームをカップの中で溶かしながら青峰は後悔した。