鍋の季節



 初冬といえど、今日は日差しがまばゆく風もなかった。午後二時の陽光は当たっているだけで幸福な気持ちにさせる。
 三連休の中日。どこかへ出かける代わりに兄と学校へ寄って、体育館でふたりだけのバスケをした。兄がこちらに来たときはいつも高架下のコートであったから、趣向を変えてみたかったのだ。誰か練習に来るだろうと思ってボールを手繰ったが、あいにく体育館の扉が開くことはなかった。
 兄には物足りなかったかもしれない。火神はボールを突きながら小学生の頃を思い出していた。汗で濡れた体育館の床をシューズの底で慣らしながら兄と対峙する。昨年までと違って、もう苦さは感じない。
 聞き慣れた販促音を背景に、兄が買い物メモを読み上げる。兄は火神の字を平気で読める数少ない人物だった。
「にんにくと生姜、キャベツ」
「おっ、人参安い」
 掲示された値段に釘付けとなり、カートを止める。袋詰された人参をいくつか手に取り見比べて、三つをカゴに入れた。根菜類は日持ちがするのでいくつあってもいいが、買いすぎると家路が困難だ。これからドラッグストアに寄って、トイレットペーパーも買わなくてはいけないのだし。
 当たり前の挙動を兄がまじまじと眺めている。不思議に思った火神は兄を呼び止めた。
「タツヤ?」
「タイガは物の扱いが丁寧だと思って」
「……こんなん普通じゃねえ?」
「俺には丁寧に思えたんだ」
「ふつーに傷んだらヤだしな。白菜安いじゃねえか……今夜鍋にするか?」
「ああ、いいね。寮だと闇鍋ばかりだから、まともな鍋は嬉しいな」
 闇鍋、という言葉に火神は眉をひそめた。
 いつかバスケ部でカントクに振る舞われた鍋は闇鍋ではなかったが、その実態は闇鍋に等しいものだった。鍋にサプリメントは入れるものではないし、出汁の効いた鍋にバナナを入れるのも食べ合わせがおかしいし。
 元来火神は食べ物で遊ぶという行為が好きではなかった。大量の食べ物を咀嚼し嚥下しエネルギーとしなければパフォーマンスを得られない火神にとって、食事という行為も食材の生産者も卑しめているとしか思えない。
「どこの学校でもやんのかよ……。タツヤんとこだと何入れんの」
 答えによっては寮に乗り込むことも辞さないでいる火神に、兄はすこし考えてから気さくに返す。
「食えない物は入れない決まりだけど、マリモ羊羹を入れた奴はいたなあ。カレー鍋に甘い羊羹の組み合わせは見ていて耐えられないものがあったね」
「普通の羊羹じゃダメだったのかよ」
「どうなんだろうね。何にせよ限度を超えないくらいがいいよね、いくらお遊びだとしても。わ、こんなに鍋の種類があるの?」
 寒くなってきたからだろう。白菜と長葱の間に鍋物の素が並んでおり、氷室が目を奪われた。
 火神には当たり前の光景であったが兄は新鮮に感じるようで、食い入るようにパッケージを眺めている。
「トマト鍋に豆乳鍋、すごいな」
「食いたいのあったらそれにするけど」
「カレー鍋とカレーの違いってなんだろう」
「白米入れるか入れないかとか?」
「なるほどね。見ているだけで面白いな」
 兄が手にしたちゃんこ鍋の素をカゴに入れた。
 ペースト状のつみれの素に、鶏もも肉。油揚げと大根。締めはうどん。ざく切りにした熱い白菜を噛み砕くのが待ち遠しい。
 鍋はひとりでも行うが、誰かのために鍋をするのは随分と久しぶりだ。二人分の食材を買うことも。部員やアレックスに食事を振る舞うのとは違う気がする。兄は特別だ。身体が浮き立つ。何をしても待ち遠しくて懐かしい。
 精算を終えた品物が入ったカゴを先に持って、袋詰をしてくれる兄の背の隣に並ぶ。
 ウインターカップを終えて、兄が火神を訪ねるようになった初めの頃は、兄が来る前に買い出しも掃除もすべて終えるようにしていた。緊張で兄を迎える以外の何も手がつかなかったというのもあるし、兄を万全の態勢で迎えたかったというのもある。部活で頭が一杯で、うっかり買い出しを忘れた日に兄が付き合ってくれた事が契機だった。
 それからというもの、こうして買い出しに付き合ってくれる。兄は手伝えることがあれば何でもすると言ってくれるが、買い出しを手伝ってくれるだけで火神は満たされた。父と買い物に行ったのはいつのことだっただろう。
 家族ができたみたいだった。
 確かに兄は昔から兄だけれど、そうではなくて。
 同じ家に住んで自分を家族だと認めてくれる、肉親のように思えてならなかった。そう思い込みたいだけなのかもしれなくとも。
 父親はいるけれどそうではなくて、もっと身近な、親しい存在。
 兄に本物も本当もないのだけれど、兄が本当の家族であったならば、きっと。
「俺、タツヤとなら絶対一生暮らせる」
「何だ、藪から棒に」
 エレベーターの中で脈絡もなく宣言した火神に、兄は訝しがった。
 世間では他人と長い間暮らすことは難しいというのが定石で、だからこそ交際や別れを繰り返すものだというが、火神は兄とならば額面通りになると思うのだ。
 飽きたり嫌気が差したりすることはないだろうと確信めいた予感がある。食材を詰め込んだ袋を握る手にも力が籠もった。
 兄にはトイレットペーパーを持ってもらっている。袋詰されたトイレットペーパーを提げて往来をゆく兄の姿は新鮮で似合っていた。兄を見た者は兄を浮世離れしていると評価することが多いが、こうしてきちんと血に足がついている姿を見れば、また印象が変わるはずだ。
 長ネギの伸びた買い物袋を肩から提げる姿もいいし、お勤め品を興味深く覗き込む姿だっていい。
「タツヤとなら一生飽きねえと思う」
「飽きない、ねえ」
 ゆるく掛かる重力を受けながら、兄は高鉄の扉の前に立っていた。
 いつの間にか兄より背が高くなってしまったので、ほんの数歩でも後ろにいると兄の後頭部から肩にかける輪郭を目にすることになる。そのことがほんの少し寂しい。誰にも打ち明けたことはなかった。
 目的の階に到着し、エレベーターを出た。
 誰とも会わない廊下を進みながら、兄が火神を振り返ることなく答えた。
「俺は飽きそうだけど。まあ、どうにかなるんじゃないか」
 渡した合鍵をくるりと回し、ドアを開ける。玄関に足を踏み入れる兄の背中が大きく見えた。
「ただいまー」
 足が止まった。荷物が重いのではなく、兄が靴を脱いでいるからではなくて。
 当たり前のように火神の部屋で兄が「ただいま」と口にしたその事実に。
 たまたま口についただけかもしれなくとも、兄がまるで自分の家のようにその言葉を口にしたことが火神には眩しかった。
 トイレットペーパーを持ち直した兄が怪訝な顔でこちらを見ている。
「タイガ?」
 慌てて火神も玄関に入った。靴を脱ぎ終えた兄は既に廊下に立っている。
 きちんと揃えられた兄の靴の隣に、火神も靴を寄せた。
「ただいま」


黒「氷室さんが食べる闇鍋に寮生の精液入りコンドームが入っていて、氷室さんが箸で掴んでしまったら中身を飲まなくてはならないという話はどうでしょうか」
氷「タンパク質だから煮込むと凝固するよ?」
黒「リアリティラインを下げるか迷いますね」
氷「いっそ摘んだ精液の主のコンドーム代わりにならなくてはいけないのはどうかな」



「第一回ッ! 多部交流寄せ鍋大会ッ!!」

 司会役の寮生が啖呵を切った。
 狭い部屋だ。席に着いた氷室の目の前には、ガスコンロの上で煮える鍋が湯気を放っている。
 談話室でやればいいものを、呼び出された先は個人の部屋だった。
 氷室の部屋と似たような造りの間取りの真ん中に折りたたみ式のテーブルが置かれ、囲むように座る者、席が足りなくて立っている者もいる。 
 部活動に力を入れている陽泉高校であるが、他の部との交流は乏しい。
 広大な敷地ということもあり、練習場所は分散し、体育館を巡って鍔迫り合いになることはほぼない。良好な関係といえば言えなくもないが、単に接触が少ないだけ。
 そこで同じ寮で暮らす生徒同士から交流を始めるということで、氷室が借り出された。確かに、寮では見たことがあってもさほど深く話をしたことがない面々が鍋を囲んでいる。
 他の部の部員と交流を深めて何になるのかという疑問はあるが、バスケ部代表として選ばれてしまったからには仕方がない。適当に場を温めて責務を果たせば文句は言われまい。
「まずはバスケ部の氷室から、一度箸でつまんだものは絶対に食べるのがルールッ!」
 司会のテンションが疎ましくなってきたが、両手を合わせて食前の挨拶をする。
 鍋は不透明な汁で何が入っているのかわからない。確かに闇鍋というのは言い得て妙だ。バスケ部の部員から闇鍋の概念を聞いてからこの場へ赴いた氷室に死角はない。相手が劉であったので若干中国に寄っているかもしれないが、死にはしないだろう。せめて食べられるものが入っていればいいが。
 割り箸を音を立てて一膳に割る。引っ掻き回すなどと行儀の悪いことはしたくなかったので、氷室は箸越しの感触で最初に触れたものを摘んだ。 
 妙にやわらかく、それでいて弾力がある。
 糸こんにゃくだろうか、餅巾着だろうか。
 ちくわにしては小さい。
 汁から摘み上げたそれは、あまりにも場違いだった。 
 口の端を結んだ、水風船に似たそれ。
 先端の精液溜まりは不透明な汁で薄く覆われていても、何が入っているかは容易に想像できた。
 うすうす〇.〇一。見栄を張る奴が使う代物だ。
 部屋中に歓声が響き渡る。隣室から壁を蹴られる程の声量であったが、この調子であれば左右の部屋の主もこの場にいるのだろう。
「ピンク色ッ!! 陸上部五島ッ!! おめでとうッ!! 氷室に選ばれたのはお前の精子だッ!!」
 初めて聞く名だった。紅潮し俯いた、氷室の左側でばつが悪そうに立っている男がそれだろう。ジャージの上でもゆるく勃起している様が愚かしさに拍車をかける。
 氷室は息を吐いた。どうにもいじめと親善の区別がつきにくい。
「さあ氷室ッ! 一度箸で取ったものはなんであっても食うのがルールだッ! 食えッ!」
 周囲からイッキと怒号のごとき唱和が木霊する。
 氷室は箸を置くとコンドームの結び目に手をかけた。周囲のコールにどよめきが混じる。
 もはや熱さを感じている余裕はなかった。慣れた手付きで解き、立ち上がる。唸りをつけて司会の顎を殴りつけた。がちん、と相手の歯が無理やり噛み合わせられる。残念ながら前歯は折れなかったようだ。
 氷室は薄さではないと思っているし、大きさでもないと思っている。
 着用する相手が気持ちよく射精できるコンドームが最も優れたコンドームだ。
 よろめく男の足を払って転ばせば、鈍い音を立てて畳に頭を打ち付ける。泡を吹く唇を指で割り開けば、舌は噛んでいないようだった。精液溜まりを上にし、機能できていない男の口内へコンドームの中身を押し出した。凝固して色味を増した精液がぬるんと喉奥まで滑っていく。
 たんぱく質は熱すると凝固すると知らなかったのだろうか。排水口が詰まらないよう掃除をしていた弟の背を氷室はきちんと覚えている。
 窒息死は面倒なので、ゴムをその辺に放った。いつの間にか静まり返った場の面々を見回して、立ち尽くす精液の主を見つける。後ずさるも壁に背をつけざるを得ない男の股間をためらいなく蹴り上げた。
 股間を抑えつけてうずくまる男の頭を軽く蹴れば、奴も容易く畳の上に転がる。
 氷室を止めようとする人間はもはやこの場にいなかった。固唾を呑んで事の成り行きを注視している。
 閉じようとする脚を爪先で広げれば、涙の滲む瞳で見上げる男の手ごと、萎えた陰茎を踏み潰した。
 
 足裏から骨の折れる感触が伝わった。


氷「ごめんね、殴っちゃった」
黒「また次回にしましょう」