自惚れていいですか



 厚いタオル地の太い帯をどうにかして結んで、ようやく僕は息を吐くことができました。息の仕方を忘れたように、指先に神経を集中させていたのです。
 バスローブを着るのは初めてのことでした。お風呂上がりに素っ裸でいることも、それが事を終えたラブホテルの一室であることも。何より相手を待たせた状態で格闘していたのですから、仕方のないことでした。
 火照った身体に、涼しい下半身。バスローブの着心地は、あいにく良いものとは言えません。大判の、それでいて目の粗い布地の感触が肌を包んで、僕はどうにも落ち着きませんでした。下着を身につけないまま歩くと、ふとした拍子に下腹部やその下も見えてしまうのではないかと、あまりに無防備な有様に動揺します。
 ここに僕の裸を見て喜ぶ相手などいないというのに。

「変な感じがします」
「似合うよ」

 ベッドに転がる氷室さんはベッドの真向かいに置かれたテレビに顔を向けたままでした。氷室さんとそういうことをするために暗くした照明は、色鮮やかなテレビを映えさせます。窓のない室内の、調度品のすがたかたちがわかる程度に絞られた明かりの下で過ごすのは、僕をどこか不健全な気分にさせました。
 氷室さんが連れてきてくれたラブホテルは想像していたよりもずっと普通のところで、ほっと安堵したのと同時に甘い夢もまた潰えてしまいました。それは憧れ、もしくは冒険心というのでしょうか。読んできた小説で想像してきた空間とは、まるで違っていました。もっと淫靡で、俗っぽくて、いるだけで後ろめたい気持ちにさせる、そうした空間であってほしいと思っていたのです。 
 ほぼバスタオルではありましたが、ひとまず衣服を身につけた僕は本来の調子をいくばくか取り戻し、広いベッドに乗って氷室さんの隣に陣取りました。氷室さんはいつのまにか冷蔵庫から取り出したアイスを食べています。蓋つきの、カップに入ったアイスクリームを、これもまたどこから探してきたのか銀のスプーンで口に運びます。僕はそのスプーンになりたいと思いました。
 積み上げた枕を背もたれにして、ビーチチェアか何かのように寝そべったまま、彼は優雅にリモコンを操作します。氷室さんはバスローブを羽織っただけでした。開いた襟から胸部と腹部とその下が、薄ぼんやりとした明かりに照らされていました。
 ラブホテルで過ごす氷室さんのそれは堂々としたもので、ふかふかのベッドで柄にもなく正座に近しい姿勢をした僕の心を炙ります。

「その……意外でした。僕とこんなこと、してくれるなんて」
「君がレイプしたの忘れたの?」

 生ぬるい腿の確かな厚み。鋏の刃が下着を裂く音。弛緩した唇から垂れる唾液。
 彼の言葉でその時のことをまざまざと思い出し、途端僕の陰茎は熱を帯びました。頭にもやが掛かったように甘く痺れていきます。僕はあからさまな行為よりも、想像や記憶に昂ぶるタイプでした。

「その節はすみませんでした」
「よかった。都合いいように変えられてたら嫌だからね。アイス食べる?」
「あ、いただきます」

 銀の匙がやわらかな塊をくずし、うずたかく乗せた様を僕は声もなく見つめていました。匙は僕を指したかと思うとくるりと向きを変えて、氷室さんの唇へ消えました。顎を掴まれたとわかる頃には、氷室さんの舌が僕の歯の裏を擦って、早々に出て行きました。
 何の味なのかわからないまま、氷室さんの余韻を、繰り返し追いかけます。

「あとでひとくち欲しいな」

 また掬った匙を舐めながら、ゆるりと垂れた瞳を前髪の間から覗かせます。僕よりも先に浴室を出た彼から漂うほのかな熱気と、僕も使ったシャンプーの匂い。湿り気を帯びたままの前髪の重みを思いました。
 気の済んだ氷室さんは、また画面に向き直り、リモコンを操作します。思い出したように火照る頬に気のつかない振りをして、彼の隣に並びました。リモコンは並べられた配信映画を次々と選んでは通り過ぎていきました。
 彼が見ているのはこうした場所につきもののアダルトチャンネルではなく、ホラー映画のページでした。あからさまに恐怖を煽る安いパッケージの画像がいくつも並びます。

「火神君と、付き合っているんですよね」

 僕はそう聞かずにはいられませんでした。
 氷室さんは昨日食べた夕飯を思い出す軽さで答えます。

「そうなのかな?」
「……火神くんは付き合っていると思っていますよ」
「それならよかった。んー……何がいいかな。黒子くんはどれがいい? 監視カメラに映るやつと、心霊写真と、墓場で鬼ごっこするやつ。日本の心霊ものってどうして白いワンピースの女ばかり出るんだろうね、黒子くん知ってる?」
「氷室さんは火神君のことが好きなんですよね」
「会話になってないんだけど。好き? っていうか……普通かな。ああ、もしかして妬いているの?」
「そうしたものではないです。……おそらく」

 僕は焦燥のようなものを薄らと感じながら、彼の返事を待っていました。彼はこちらの問いに疑問形でばかり返します。断定で答えてくれなくては意味がないというのに。
 陰影を帯びた腕が伸び、彼は食むように唇を重ねました。舌の絡まない、それでいて唇の内側が微かに触れるそれは、彼が触れたときと同じように一方的に離れ、軽く音を立てました。
 彼は僕の前髪を掻き分けて見下ろします。

「安心して、タイガには言わないし」
「そういうつもりではないです……けど」

 自分でも何を答えているのかわからなくなっていました。なにせ、彼が僕の問いにまともに答えないのですから、問いを重ねるこちらも何を喋ればいいのかわからなくなっていきます。

「氷室さ……ん」

 それきり僕は唇を塞がれて、喋ることができませんでした。烏が肉を啄むように彼は僕の唇を開き、舌を擦り合わせます。形のいびつな唇同士は重ねても隙間ができ、まともに息ができない僕はその度に空気を求めて藻掻きました。それだのに彼といつまでも唇を合わせていたくて、互いの口内で起こることだけに意識を傾けていたくて。まったくどうかしていました。
 彼の舌を感じる度に自分でも聞いたことのない声がくぐもっては漏れ出でます。唾液を飲み込むことはとてもできず、ふとした拍子に口の端から溢れました。ベッドに投げた足裏を涙のように生暖かい涎が糸を引いて落ちます。
 自分以外の手が、僕の衣服をはだけさせようとしていました。あれほど苦労して結んだローブの紐はあっという間に解け、ひやりとした外気が胴を撫でていきます。火照った手が下腹をなぞり、くっきりと頭をもたげた陰茎はすっかり玩具にされています。
 逆上せたように落ち着かない意識のまま、唇を離されました。僕は馬鹿のように舌を出したままでしたから、彼の閉じた唇との間に唾液が掛かったままでした。彼の目はもう僕ではなくその下の陰茎に降りていて、僕は彼の手の中で育った自分の生殖器が十分に快楽を得ていることを目の当たりにしました。
 朱色に猛り、女性の腹を――いえ、彼の腹を抉って、種をつけるための形。そうなるように育てたのが他でもない彼の手だと思うと、頭の内側で痺れるような快楽が弾けては溢れます。それでも僕は問いをやめませんでした。

「火神君のどんなところが好きですか」
「手軽にヤれて、飯うまいとこ?」
「聞かないでくださいよ」

 こちらが答えを知っているわけではないのに、どうして彼はこうも答えをはぐらかすのでしょう。
 彼の手の内で粘度の高い水音が響きます。氷室さんは僕の問いかけよりも目の前の男性器に夢中なようでした。

「あ、そうだ今度タイガのベッドでする? タイガの前でしよう。きっと楽しいことになる」
「そういうのはいいですって。火神君が悲しみますよ」

 隠しもせず彼は鼻で笑いました。お笑いぐさを吐き捨てるための軽蔑の滲んだ表情に、僕は唇が緩みそうになりました。彼は決してそうした、己の忌むべき感情を人前で出すようなことはしないでしょう。だからこそ、彼の浮かべた滅多にない表情は僕の心に深く、それでいて鮮やかに残りました。
 どこか愉快な調子で彼は話を続けます。

「そうだね、悲しむかもしれないね。やりたくなったらいつでも付き合うよ」
「やりません」
「俺がやろうって言っても?」

 何度目かの予告なしのくちづけに対して、もう僕は何もできませんでした。重なった唇から彼の舌が僕の力のない唇を割り開き、当たり前のように舌を進めます。互いの唾液で滑る舌が絡んで、恥骨のあたりが疼きました。僕はただ、与えられる熱を受け止めるだけでよいのでしょう。彼の指は濡れてどろどろになった僕の陰茎を玩び続けます。
 いつもこのようなことを火神君としているのだと、思いつきが頭を掠めたからでしょうか。根元からひゅくんと揺れてしまって、彼は揶揄うように重くなった嚢を指先でくすぐりました。
 全く彼はどこまでも手慣れていました。何度も繰り返さなければこうも手際よくならないことでしょう。僕は氷室さんの身体をどう扱えばいいのかわかりません。自分の体ですらわかりませんのに。彼は僕の体、というより同性の、男の体の扱いをよく心得ていました。
 それが火神君によって齎されたのだとしたら。その想像は僕にとって甘美なよろこびでした。跳ねる腰を彼の手が宥めるように撫でます。まだ腰を振るには早いのだと。
 ベッドに背をつけるよう誘導されれば、横たわってすぐに氷室さんに見下ろされました。ひとりでに形を持った乳首をくすぐるように両手で弄られ、ぐっしょりと濡れた陰茎は氷室さんの股の間でつるつると擦られます。窄まりの縁に陰茎の先端が当たる度に、そのまま入ってしまわないかどきどきしました。
 氷室さんに触れられると僕は何もできなくなります。腰を振る以外、彼に手綱を握られているのです。
 それで彼は喜ぶので、彼の望み通りに事は進んでいるのでしょう。僕が納得できないだけで。

「黒子くんは二号と違って『待て』ができないんだね」

 肩からするりとバスローブを脱いでしまうとポールダンスでもするように見せつけて、彼は僕の陰茎を飲み込んでいきました。するりと滑るように収まったものですから、腰が震えてすぐに達してしまうかと思いました。

「っあ、ん、あ……。んん……ん」

 細切れの僕の声を掻き消すようにして、彼は心地良さそうに眉をしかめて喘ぎます。僕の陰茎が彼の体内にすっかり収まってしまっていることに、僕は何度見上げても目を疑いました。彼の瞳がおかしそうに僕を覗き込みます。

「動かないんだ」

 氷室さんにどこまでも主導権を握られているのに今更、と喉元まで文句が出かかったところで、彼は腰を動かし始めました。熱く、うねっていて柔らかい彼の体内は、彼が動くと途方もない快楽を引き起こしました。彼の動きは深く、それでいて速いのですから当たり前です。
 僕は何もかも放って、彼に任せるがままにしました。おそらくは彼もそう望んでいることでしょう。奉仕というよりは搾取であり、性交というよりは自慰に近しい。
 どう考えても彼は僕が好ましいと思う交際対象から外れていました。そもそも男性です。しかしながら、彼が女性であれば僕は気に留めたでしょうか。こうして再び会おうとしたでしょうか。
 気心の知れた、大切な相棒のお兄さんだから、僕はこうも執着しているのではないでしょうか。
 氷室さんが僕に対して何を思っているのか、わかりません。
 それでも二度目の性交は蕩けるように気持ちよくて、達した後、しばらく何もする気が起きませんでした。

「黒子くんは、タイガが好きな俺が好きなんだろう」

 彼の手が僕の湿った前髪をゆるく指で梳かしては寄せていきます。露わになった視界で見上げれば、彼は真顔でした。てっきり微笑んでいると思っていた僕は、何の表情も浮かべていない彼の端整な顔立ちから答えを探そうと、苦い焦りを感じていました。

「図星かな」

 返事ができるわけがありませんでした。口に出せばどれも嘘になりますから。
『あなたが火神君のものになったから欲しくなったんです』
 正直に胸の内を話すのは、浅ましくて厭らしい。
 何も言えずにただ唾を飲むだけの僕を前に、彼の唇から場違いな音が漏れ出します。笑うべきではないタイミングで笑う彼は腹の底からおかしくてたまらないとばかりに顔をくしゃりと歪めていました。

「あはは。まあ、いいじゃないか。黒子くんとするもの楽しいよ? タイガはほら、義務みたいなものだし。ふ、それにしても、ふふ、あは」

 まだ繋がったままの彼が誘うように腰を揺すれば、僕も望み通り下から突き上げます。彼は勝ち誇ったように僕を見下ろしました。

「ほら」

 唾液で濡れた彼の唇の鮮やかさは、薄暗い室内でもよく映えました。

「俺たち、相性悪くないと思うよ?」

 
 ***
 

「映画付き合ってくれる。幽霊がでるやつ」
「いいですよ」

 氷室さんは有無を言わさぬ口調でホラー映画を選んでいきます。配信のラインナップはどれも幽霊が出るものだと口を挟むことはしませんでした。
 幽霊が出るものはどれも火神君が見られないものです。
 三度目のシャワーを浴びた僕は隣の氷室さんにくっついて、アイスにスプーンを突き刺します。冷蔵庫に入っていたサービスの、カップ入りのバニラアイスです。僕はモニターにかかりきりの彼にアイスを乗せたスプーンを差し出しました。

「氷室さん、悪い人みたいですね」
「君がそうじゃないの」

 スプーンの柄までひとくちで掠ってしまうと、そう言って悪い人は微笑みました。