逃げられる方が馬鹿なんですよ



 氷室辰也は人でなしでした。
 彼という存在に気づいた人間は、みな例外なく己というものを失いました。
 自己、自我、いわば自分らしくあるということ。己を自分であると証明し確認する、確固たる軸のようなもの。人間であれば誰しも持ち得るものです。それをどうしたことでしょうか。数十年、もしくは十数年、いえいえ生まれ落ちて数時間であっても、積み上げてきた自己というものをみな喜んで棒に振ってしまうのです。氷室辰也の望むままに。いいえ、彼が望もうと望まなかろうと、人間はひとしく彼の供物でした。
 彼の肉体は雄として生まれ出でましたから、異性たる女にとってはもはや毒でした。
 たとえば習い事の帰り道。寄り道をしようと足を向けた路地に、ふと彼を見つける。整った相貌の大半を隠してしまう前髪の垂れた様――濡れたように重く、漆で塗ったかのごとき艶めく黒髪。内から光輝くような白い肌。見つめられるだけで胸を掴まれる甘い瞳。何やら眩暈を伴う芳香すら匂う。この辺で見かけるはずのない浮き世離れした有り様に、息をするのも忘れて惚ければ、巾着を落としていたようで。砂利のついた布地をほろって、眼前に差し出す男の手の、袖からするりと露わになった傘の骨を思わせる力強いこと。
 薄い微笑を湛えた口元に気遣われれば、狐が罠にかかったようなもので。蝶よ花よと育てられた一人娘がどうなったかといいますと、家の財産を持ち出し、金になるものは金に換え、何も知らぬ父に毒を盛り、止める母を井戸に落とし、最後に庭で油を浴びて燃えました。それは見応えのある炎となったそうで、彼は縁側で猪口を舐めながら灰になるまで見てやりました。
 こんなものはよくあることで、子持ち女の時は夫の名義で金を借り、腹を痛めた子を人売りに出し、仕舞いに夫を刺しました。彼は往来でしょっ引かれる女を見送ってやりました。女は後にひとりきりの監房で首を括ったそうです。
 下女の時は店の金を持ち出すだけに飽き足らず、世話になった店に強盗を入れまして、家族使用人もろとも始末する途中で息の根を止められました。彼は畳に転がる女の手から、ぐっしょりと濡れて冷たくなった袋をもらいました。中身は紙幣や小判やらそうしたものです。そこは代々続く商家だったので、時の将軍から貰った金の小判を後生大事に仕舞い込んでいました。
 おわかりでしょうか。女ときたら決まって彼に血で汚れた金を貢ぎました。それしか能がないとでもいうように。いいえ、決まって女は彼を知ると貢がずにはいられません。彼が望もうと望まなかろうと、女は彼に命すら貢ぐのです。
 そうして氷室は女から女へと渡り歩きました。気ままにふらふらと。金に困ることはありません。行く先々で女が貢いでくれるのですから。身の回りの些末なことから衣食住に至るまで。血なまぐさくはありますが、彼は気に留めません。蝶が蜜を求めて花から花へ舞うように、彼もまた津々浦々を巡っていました。
 あるところで誰も彼もが息絶えて、彼はひとつ屋敷を手に入れます。この家の主だった女は脚が悪かったので、彼はいつも車椅子を押しました。車椅子は主とともに池の底に沈んでいます。両親を早くに亡くし、不自由な体でしたから嫁の貰い手もなく、余されていたのです。財産を食いつぶす親戚もぐるになっていた下女も彼がすっかり片付けてしまったので、屋敷に住まうのが彼ひとりだと知る者は、火曜木曜に食材を届けに来る商店の女くらいなものです。
 街から離れた、洋風の大きな屋敷でした。庭は広く、部屋に籠もるのに飽きたときには、いつも散歩をしました。よく手入れのされた薔薇のアーチをくぐると、蝶が供連れのようにふわふわと彼の傍を舞いました。蝶の方では彼を仲間だと勘違いしていたのでしょう。屋敷には書架をいくつも抱えた部屋があり、彼は適当に本を抜き出しては居間のソファに転がり、眠くなるまでページを捲りました。豪華絢爛な地獄絵を綴じたものですとか、異国語で書かれた医学の本、挿絵の豊かな植物図鑑ですとか。抜き出した本は山にして床に積み、読み終えればその隣に積みました。屋敷にはいろいろなものが置かれていましたから、骨董ものの西洋の壺や絵画、くたびれた燕尾服やドレスの詰め込まれたクローゼットや、自転車なんかがありました。それらをいじったり広げたりするのも、彼の楽しみのひとつでした。一切合切彼と結びつかないものであるからこそ、彼の暇つぶしとなり得たのかもしれません。
 その道の学生でもおいそれとは触れられない高価な本を腹ばいになって雑誌のようにめくるうちに、氷室の興味はある一冊へ注がれます。
 それは古びた本でした。皮で誂えた表紙は艶めかしく、手に吸い付くようです。適当に開いたページから読み進めていけば、なにやらそれは妖しげな魔術に関することが書かれています。めずらしいことにそれはペンによる手書きのもので、振り返ってみればそれは個人の日記でした。
 紙へ刻みつけるような筆跡に、筆者の執念を嗅ぎ取ります。けれど氷室は筆者の念など意に介さず、悠々と読み進めました。そうしていろいろな図版や手順などを見るうちに、沸いてきたのでしょう。好奇心や遊び心というものが。ゆで卵の作り方を知ったので、ゆで卵と鍋と水を用意する。その程度のものと同じです。
 彼が何をしたか。わざわざ記すのは野暮なことではありますが、続けましょう。近くの農家に頼んで買い取った鶏を絞め、脚を吊して集めた血で、魔方陣を描きました。女の寝室であり、いまは彼が寝起きするその部屋の、床に敷かれた絨毯へ。
 かつては食事を盛られた欠けひとつない白磁の皿。それを彼は鶏の血で満たしました。このときに用いる血には召喚する人間の血を混ぜなくてはいけませんが、彼ときたら鶏の首を切った刃物で手首を裂きました。それも縦に。手首から二の腕に向かって、深々と赤黒い一線を。大方効率よく血を絞り出すためでしょうが、それにしても考えなしです。この屋敷には彼ひとりしかいないというのに、誰が傷を縫うのでしょう。
 傷口からどろり血を垂れ流しながら、刷毛で陣を描きます。雑な彼でも描ける簡単なものでした。円の外と中に名を書かなくてはならないものでしたら、刷毛では到底できません。
 彼は鼻歌を歌いながら手を動かしていました。ベンチにペンキを塗るかのように、その姿は飄々として掴み所がありません。納得のいく出来を作り上げた彼はペンキを放り投げて、件のページに目を向けます。止まらない彼の血で紙は濡れ、赤く汚れ、インクは滲みました。本をごみのように床へ落とします。
 左手を頭に、右手を足に。彼に恐れはありません。高揚もありません。数多の人間が抱いてきた感情を彼は持っていませんでした。
 失血のための重い目眩も耐え、彼はきちんと右の足裏を掴んで膝を曲げ、一本足で立ちました。傷口から流れた血が髪を濡らし、頭皮を汚し、額にひと筋の線を落とします。
 あとは決まり文句を口にするだけで、彼は確かに声にしました。たったの八音。必要だったのは契約を結ぶための前戯と、取り返しのつかない宣言。彼は事を全うし、僕はそれに応えたので、現在があるのです。氷室さんの膝でぬくぬくと。安寧に浮かれる僕という今が。
 雇用形態で僕らの関係を言い表しますと、主人と僕になります。
「うれしそうだね」
「そう見えますか」
 彼はくたびれた革張りのソファの端に腰を落ち着け、僕の頭をするり、するりと撫でています。膝に乗せた僕の頭は氷室さんを向いていましたが、目を瞑ることなく間近に迫った彼の、着物の模様を視界に入れます。こうすると彼の甘い匂いを間近で味わうことができるのです。先まで彼の手を占めていた本は閉じられ、床に避けられました。
 氷室さんは何かと触れることを好みました。そのくせ、触られることはあまり好きではないようです。紬を通して沁みる彼の体温に浸るのは心地よく、そうして頭や顔を撫でられていると、自分が猫になったようになります。彼のてのひらに収まる大きさのちっぽけな生き物になった気分で、それは僕の心に平安をもたらしました。
「ほら、このあたりがいつもより、上がっている」
 唇の両端をするするとなぞって、頬から上へ。唇を耳まで裂いてしまうように。彼の不穏とも思える指の動きは、それだけ僕がうれしそうな表情をしていることを示すためです。産毛の生えた頬をすうとなぞる彼の指がこそばゆく、僕は肌を震わせます。
「氷室さんにしかわかりませんよ」
「おや、君は表情豊かなのに。もったいないね」
 周りが、ということなのでしょう。彼は意図的なのか癖なのか、言葉を省略しがちでした。今では彼がふきだしの裏に隠したものを尋ねなくとも、こちらで補うことができます。
 和紙に水滴を落とすような、静かな声です。揺らぎとは無縁の、穏やかな声。誰しもが求めうる安寧を内に宿しているのですから。
「氷室さん、口を吸ってもいいですか?」
 仰向けに変え、彼を真下から覗き込みます。
 僕は幸福な現実に浮かれていました。独り者と独り者が身を寄せ合って、ふたりで完成する蜜月。僕は氷室さんを気に入っていましたし、むしろ好いていました。初めて言葉を交わしたあの日から面白そうだと思ってはいましたが、これほどまでになるとは。当時の僕も予測できないことでした。
 彼にわざわざ許可を求めたのは、ここでしてもいいかと、そうした意味合いを含んでいました。氷室さんは二つ返事で促します。
「いいよ」
 そう許した彼が自分から顔を近づけはしないので、僕は上体を起こし寄りました。お互いの睫毛が絡んでしまう近さです。この近さでも目を閉じないので、僕らは似た者同士なのでしょう。
 顔の左を覆う前髪に気兼ねすることなく、唇を寄せました。肌に当たる彼の前髪は露に濡れた草を思わせます。
 氷室さんとの接吻は、肉を得てから知った楽しみのひとつでした。肉付きの薄い唇を割り開き、濡れた舌で彼の体温を弄ります。ぬめる舌を擦り合わせ、飲み込み損ねた唾液を垂らし、息さえ忘れて目の前の熱に没頭する。
 介入と浸食。どの女でも彼にしなかったことです。いいえ、彼は女にしてあげる方でした。
 幾多数多の人間と関わる内に、彼は数えられないほどの思いを身に纏いました。それは鎖同様に彼を雁字搦めにしたのです。目に見え感じ取れるのは僕くらいなものでしょう。尤も彼にとっては空気同然でした。何せ、絡め取られていることに彼はちっとも気がついていないのですから。
 わからないのであれば、ないのと同じです。ですから僕は、僕なりの方法で、僕と氷室さんの邪魔をするものを無くしてしまうことにしました。
 口を吸う。これはその一つです。彼と口を合わすことで、死霊の如き思念を無にすることができます。しかし、いくら無くすことができるからといって、その量は膨大です。僕にとっては大掃除そのものでした。
 内に積もり、思うさま絡んだ泥のような鎖をひとつ引き寄せては壊していく。長年与えられるばかりで吐き出されなかった感情の澱を、ゆっくりと。彼は愛されていました。深く激しい熱情でもって。誰よりも強く守られていました。
 与えるばかりの愛情は縛り付けるためにあるものです。もはや執念でした。加護などと生易しいものではなくなり、ただの呪いとなります。彼だけを守るための呪い。彼以外を根絶やしにする呪い。生者が施す新鮮な呪い。僕は人間の道理の外にいましたので、影響を受けることはありません。そう考えれば僕が彼に呼ばれたのは、運命的なものが働いたのかもしれません。
 であれば、僕はいつか対峙することになるのでしょう。彼を彼たらしめる元凶と。
 しかし、今は考えなくてもよいことです。
 僕のもたらす接吻が彼の好いところを煽っているのはすぐにわかりました。こうすると決まって麻薬のような作用をもたらすのです。
 僕の肩を掴み支えにする彼の、余裕のない姿。重ねた布の奥で頭をもたげる雄。火照り、うっすらと噴き出し始めた汗は肌を鞣して。たかだか口づけだけで、いいえ口吻だからこそ、彼は熱に溺れるのです。人は己の輪郭を際立たせられたり曖昧にされることで、忘我に浸るのです。
 唇を離せば、ゆるみきった彼が間近で惚けていました。僕の背を物言いたげにすりすりと撫で、喉仏をゆるく動かし耐えています。僕に向けるすべてが弛緩しきっていました。男が見れば組み敷くに違いありません。
 彼は熱を帯びた瞳で僕に懇願します。濡れた灰青の瞳には僕の顔しか写っていませんでした。
「おいで、テツヤ」
 独りでに乱れた襟から、素肌にかけた鎖がまばゆく光りました。