あなたがわたしを泳がせる

暗いぞ



 彼と顔を合わせてから三月も経っていました。
 僕が彼に告白をすると、彼はその場でいいよと答えて。それから僕はまるまる三ヶ月、こうしてインターハイの会場で彼がこちらに来るまで、まったく連絡を取りませんでした。僕も彼も連絡先を交換するといったことはしていません。ですが、望めばどちらも連絡先を知ることはできました。火神君から、紫原君から。しようと思えば互いに連絡をすることはできたのですけれど。
 彼の姿を目にした僕は、彼を追いかけました。僕の姿を見つけた彼も、僕に近寄りました。ふたりとも自分の部に断ったので、こうして会場の外で立ち尽くしています。まわりにあまり人はいませんでした。誠凛のウェアを着ていると嫌でも視線を集めるのですけれど、そうした無遠慮なまなざしが僕にも彼にも注がれていないことに僕は安堵していました。
 僕も彼も無言でした。話すことなどありませんでした。そもそも彼と僕では、話題などほとんどありません。強いて言うのであれば、両校共にインターハイへ出場できたことを祝うくらいでしょうか。負けません。今度も勝ちます。そうした決意と共に。
 僕は何もかもをすっ飛ばして、彼に尋ねていました。挨拶から季節の時候、チームの調子や次の試合にかける意気込みまで、この話題に持っていくまでに踏んでおくべき数々の手順をかなぐり捨てて、本意を知りたかったんです。どうして僕の告白に応えたのか、と。それは、三ヶ月前に僕が彼に告白したときと同じやり方でした。

「俺に、初めて交際を申し込んだからだよ」
「そんな馬鹿な」

 僕はすぐに答えました。そんな理由でろくに言葉を交わしたこともない人間との交際を許すひとがいるはずありません。そもそも、彼の言葉自体が嘘のようでした。だって、氷室さんです。美醜にあまり頓着しない僕でさえ整った姿をしているのだろうと思う彼が、他の誰かに告白されたことがないだなんて。火神君はよく僕に言っていました。タツヤはすげえカッコよくてモテまくってた、って。
 彼は苦笑いをすることなく続けます。

「本当だよ。君が俺の人生で初めて、俺と付き合いたいと申し出た」
「モテるって、聞きますけど」
「ちやほやされるのと、交際を申し込まれるのとは違う。幾度か告白されたことはあったけど、どれも過去形だったよ。ずっと好きでした、ってね。つまりは、区切りを付けるための踏み台だったんだね、俺は」

 自虐を含んだ言葉でしたけれど、彼は自分を貶めてはいないようでした。事実としてそうであったと語っています。でも、そんな言い方をしなくても良いのに。そう思いましたが、僕は黙っていました。それどころか、何も言えませんでした。
 沈黙が続きます。僕は、彼に過去形で告白した誰かさん達の気持ちが痛いくらいにわかりました。彼への思いを募らせてつのらせて、どうにもならなくなるまで溜め込んでしまったからこそ、もう解放されたいと白旗を揚げる。焦がれながらも彼に思いを告げられない。拒絶されるのがおそろしい。たった一言の勇気がいつまで経っても出てこない。こんなに苦しい思いで居続けるのであれば、自分から諦めた方がずっと楽。
 僕は誰かさん達を笑えませんでした。僕だって、紫原君や火神君がいなかったら、彼女彼らの仲間入りをしていたのですから。

「あと……ごめん。……君も知っていることだけど、身体の関係を求められることは多かった。ほとんどがそれで済んでおわり」

 何でもないことのように装って、そう彼が口にします。まるで注意事項のように。
 この製品にはあなたの心と健康に害を及ぼす成分が多分に含まれています。それでもあなたはこの製品を摂取しますか?
 紫原君がためらいがちに口にしたことを、火神君があっけらかんとしゃべったことを、僕はそれぞれ思い出しました。
 あのね、たぶんあのひと、あんまり節操ないと思う。
 彼のことを根掘り葉掘り尋ねていた僕をなんとなしに察したのでしょう、紫原君は電話の向こうでため息をつくようにこぼしました。僕はそれ以上紫原君にその先を促すことはしませんでした。紫原君の口ぶりは、いまだ乾いていない傷口を広げるようなもので。だから僕は、殴られる覚悟で火神君に鎌をかけてみたのですけれど。
 ああ、やりまくってたぜ、と。今度は僕がぐっさり刺される番でした。火神君のあけすけな物言いに僕はいくつもの金だらいを頭めがけて振り落とされました。それでも、辛抱強く耳を傾けていたのですが。
 だってそれがタツヤだから。その一言がぐわんぐわん体中に響いて、一ヶ月くらい悩みました。両親に気遣われて、部のみんなに肩を叩かれて、しまいにはクラスメイトにさえ心配されました。そうやってひとりでぐずぐずになっていたのですけれど。
 それでもやっぱり僕は、彼のことが好きで。
 いっそ、そうした過去もひっくるめて僕が好きになった氷室さんなのだと開き直ったら、もっと彼のことがいとおしくなりまして。
 つまりは、周りの言葉など障害にはならない程度には、僕は彼にぞっこんだったんです。だから僕は彼に告白しました。すきです、と。付き合ってください、と。十中八九断られるだろうからそうなったら友達になってほしいと頼もうと、これまた順序があべこべなのですけれど、そう思っていたんです。
 ところが、彼の返事はイエスでした。こちらこそよろしくおねがいします。そうした彼の言葉を聞き終える前に僕は逃げていました。一目散に走って逃げました。それから家に帰って布団の中でもんどり打って、彼の言葉を思い出していました。いいよ。その一言を何百回と頭の中で繰り返していたかと思います。自分でもきもちがわるいですし、そもそもやるべき様々なことを放り出しています。そうして回ってきたツケが今こうして目の前にあるのです。
 紫原君か火神君か、どちらかが僕の尋ねたことを氷室さんにも言ったのでしょう。改めて彼の口から三割増しでふくらんだ事実を告げられて、ふたたび大きな金だらいを落とされました。けれど、僕は頭をがんがん痛めつけるそれをしっかり掴んでやりました。こんなことで落ち込んでいては、この世の荒波を乗り越えてはいけません。
 僕が好きなのは目の前にいるあなたです。そうした今までが積み重なって今のあなたが成り立っているのなら、その過去ごとぜんぶ大好きな氷室さんです。そうしたことを、僕は口にしたようでした。自分でも何を言っているかわからないまま、僕は思いつくままにしゃべっていました。
 どうか僕とお付合いしてください。僕は勢いのまま頭を下げました。彼から返事はありませんでした。終わった。そう思ってうなだれていると、彼の手が僕の頬に触れました。そのまま僕の顔を上げるように促します。彼が、すぐそばにいました。彼が近すぎて、下ろした前髪の隙間からいつもは隠れている左目が見えました。青碧のような灰色の瞳がうるんでいて、濡れたビー玉みたいだ。そんなことを僕は馬鹿みたいに思いました。
「真剣に俺との関係を求めてきた君を、断る理由なんて、ない」
 彼のまっすぐなまなざしに、息を飲みました。揶揄も同情もありません。彼の方こそ、真剣に僕との交際を考えてくれていたのです。
 ずくん、と腹の辺りに何か重い物が落ちてきました。友達になるだけでいいですとか、短いけれどいい思い出になるですとか、そういった考えを僕は改めなければなりませんでした。僕はそのとき、ひとつの確信を抱いたのです。その思いの下に僕は彼と向き合う覚悟を決めました。僕の身勝手な願いだけではなく、彼への一方的な思いだけでもなく、ふたりがふたりでいられるまま思いやれる関係を築かなくてはならない。大げさかもしれませんけれど、僕はそうあるべくために力を尽くそうと決めたんです。だって、どうしようもなかったんです。彼の真剣なまなざしを受けて、心の底から思ってしまったのですから。
 もしかして僕は本当に、一生をかける人と出逢ってしまったのかもしれない、と。



 
 ぴちゃんと天井から水が落ちてきました。湯気が天井にたまって、水滴となって落ちてきたのでしょう。氷室さんがいちごの匂いのする入浴剤を入れてから、僕らは長い間お湯に浸かりっぱなしでした。指がほのかにふやけて、皺が浮かんできています。
 泡でもこもこの湯船の下で、僕は氷室さんの腕に抱きかかえられているのでした。彼の伸ばした脚に腰を下ろして、彼の身体を背に座っています。家のお風呂ではできない芸当でした。僕と氷室さんが悠々と身体を横たえられる浴槽なんて、こうしたホテルか大浴場ぐらいしかありません。でも、公共の場で彼に抱きすくめてもらうわけにはいかないので、やっぱりホテルだけになります。
 彼の組んだ手が僕の腹の上に乗っています。さっきまで僕と彼の立ち位置は逆だったのですけれど、僕の足が痺れてきてしまってやむなく交代しなくてはなりませんでした。身長もさることながら体重も体格も、ちょっとやそっと背伸びをしたところで彼を追い越すことなどできないのです。叶うことなら彼をずっとうしろから捕まえていたいのですけどね。
 それでもこうして彼に抱きしめられていると、きもちがよくてあったかくて、心まで満たされていくのを感じました。電話でまるですぐそばにいるかのように話ができても、触れ合いたいという欲には勝てません。そこには皮膚と皮膚の接触によって生じる神経の伝達だけではなくて、心のふれあいがあるからこそ安らぐのだと、僕はそう思っています。

「なにか考えごとしてる?」

 鼻先で髪をくすぐっていた氷室さんが、僕の返答を楽しむように尋ねます。

「思い出してました。二年生のときのインターハイのことを」
「あのときは残念だったね。冬のリベンジが果たせると思ったのに」
「それもありましたけど、僕には氷室さんにした二度目の告白が懐かしいです」
「あっ……」

 彼の腕に力がこもりました。どうやら彼にとってあの日のことは、思わず声を漏らしてしまうほど気恥ずかしいものだったようで。
 僕は誘われるままに振り向きました。目を開けたまま彼の唇にくちづけて、そっと離します。ぬれたくちびるの感触を懐かしむ間もなく、すぐに彼が僕にくちづけてきました。そうして、どちらともなくくちびるがくっついては離れていって、最後にはお互いくちを開いてキスばかりをしていました。その代わり、まぶたは閉じて。
 僕の頬に添えられた彼の手を思いながら、僕は彼の濡れた前髪をそっと左耳にかけました。彼の前髪はそれはそれはやっかいで、いつだって僕の邪魔をしてきます。彼の両目が見られやしないし、こうやってキスをするのだって頬をつっついてくる。でも、手がかかるからこそ、僕は彼のその髪型を愛おしく思っていました。
 くぐもった風呂場で僕と彼が立てる濡れた音ばかりが響いていました。やけに大きく聞こえるそれが一層僕らをせき立てて、息をするのも忘れたように唇を重ねていたと思います。ようやく、それでも離れがたく唇を離すと、僕は氷室さんの胸にしなだれました。軽くのぼせてしまっていたのです。氷室さんがこてんと額をくつけてきます。僕は彼のその仕草に、弾む気持ちのまま笑っていました。

「ふたりきりになると、素直ですね」
「大好きな君だからね。甘えないでどうするの」
「僕も氷室さんを抱きしめたいです」
「君に抱きしめられたら窒息しそう」
「喉をつまらせた白雪姫はキスで目を覚ますんですよ」
「まざってるよ……どっちにしろ王子様は君だけど……」

 彼は白雪姫といばら姫が混じった僕の答えにくすくすと笑いました。濡れた彼の手が僕の髪をゆっくりとすいています。僕はうっとりと目を閉じました。

「もう出ません? 泡になってとけてしまいます」
「そうだね、陸に上がる時間だ」

 僕のほてった頬の熱さをひたひたと手の甲を当てて確かめた氷室さんは、僕を浴槽から引きずりあげました。僕がお風呂に弱いのは学習済みです。

「ちょっとあぶなかった?」
「ええ、ほんのすこしだけ」
「強がらない。お風呂でたら水のもう」

 もこもこと泡のふくらんだお風呂に入っていたのですから、当然僕らは泡まみれで。風呂から上がった互いの姿を、着ぐるみを着ているみたい、と笑い合って。そのせいで僕はまたふらふらと立ちくらみを起こしてしまったのですけれど、それでも笑うのをやめることはできませんでした。
 泡を落として浴室を出て、まだ十分に身体を拭いていないのに僕らはベッドに倒れ込みます。身体についたたくさんの水の粒が、ぱたたとシーツへ落ちていきました。水気の残った髪が房となって、ぽつんぽつんと水をしたたり落とします。これからここで寝るというのに僕らはひとつも気にしないで、ベッドで足を絡めました。
 彼が、ベッドサイドに置いておいたペットボトルを手に取ります。キャップを外して中身を口に含むと、僕に覆い被さって唇を押し当てました。僕は彼のされるがままに口を開いて、彼の気持ちを受け止めます。彼のうすく開いたくちびるの形に合わせたつもりでしたが、それでもしずくがくちびるから溢れて顎にまで散ってしまいました。
 ばかなことをしています。馬鹿なことをしているのです。でも、僕らはそれが楽しくってしあわせで、気持ちよくてうれしくって、どうしようもありませんでした。
 氷室さんが僕の隣に寝転がります。僕は鼻先をこすり合わせるようにして、彼に向き合いました。彼はくすぐったそうにつぶやきます。

「いちごの匂いがする」
「あなただって」
「今度また、黒子くんの家に行ってもいい? 黒子くんの家、すき」
「僕もいつか氷室さんのお部屋にお邪魔さて下さい」
「いつか、ね」

 僕らはまた、唇をあわせて触れ合いました。くちゅ、ちゅっ、とくちびるの間から音が漏れて、ささやくように鼓膜を揺らします。そう、僕と彼は内緒話をしているのです。言葉のいらない、ないしょばなしを。
 気がつけば、僕は彼を間近で見下ろしていました。吐息を弾ませた彼が、ふふ、と微笑みます。シンデレラはもう帰る時間ですが、僕らが朝を迎えるにはまだ早すぎました。

「せっかく風呂にはいったのに」
「このまま寝た方がよかったです?」
「……いじわるだなあ」
「いじわるなのはあなたのほうです。あんなことをして……どうするんです、僕、体力ないんですよ」
「そうなったら担いで君の家までお持ち帰りしようかな。ご両親には挨拶を済ませているし」
「言いましたね。その台詞がもう一度言えるか、聞いてみたいものです」

 彼の指が僕の後頭部をゆっくりと撫でていきます。彼は眼を細めて僕の濡れた髪を眺めていました。

「髪、ばりばりになるね」
「このまま寝たらひどいことになりますね」
「黒子くんの寝癖、ひどいからなあ。どうやったらああなるの? 夜中にあばれてるわけでもないのに」
「生まれつきなんです。あなただって、このままじゃひどいことに……」

 彼が人差し指を僕のくちびるに押し当てました。乞うように足を絡めてきます。

「ね、もう黙って」

 僕の我慢は、それでやわらかくぷつりと切れてしまって。どうして彼はこうして僕を困らすことばかりするのでしょう。僕ははっきりと形をもって立ち上がりはじめたそれを自覚しました。一度したというのに、こんなときばかり元気になってしまって。でも、止められそうにありません。
 頬に、首筋に、肩に、胸に、腹に、腿に。彼にたくさんのキスを降らせていきます。彼はその度に身もだえながら、あっあっと吐息を漏らしました。弛緩した彼の身体をひとつのこらず口吻で埋めてしまうように、彼の肢体を愛撫します。
 体躯の優れた身体が僕の手によってふるえる姿に、優越のにじんだほの暗い欲望を抱かないわけではありません。彼よりも高い視点から彼を眺めてみたいですし、両腕で彼を抱え上げたいといつだって願っています。それと同じように、彼に包み込まれるように後ろから抱きしめられたり、胸に飛び込んで頭を撫でてもらったり。彼が僕よりも大きくなければできないことをされるのも大好きでした。僕の方が背が低いだとか彼の方が年上だとか、そうしたこともひっくるめて、僕は彼が好きなのです。僕を抱きしめる丈夫な腕のかたち、誰かを慰めることに慣れた手の置き場。僕よりも頼りがいのある彼をそのまま愛したっていいと思うんです。ただし、やられてばかりはいやなので、背伸びをすることはやめませんけれど。
 耐えるように折り曲げた指をゆるくくわえて、氷室さんがふるえます。頭を振ったせいで前髪がばらばらと彼の顔にかかり、ひどく扇情的でした。乱れた髪の間から覗く彼の瞳はうるんだ膜を帯びていて、ぼんやりと惚けています。僕は何もしないでもひとりでに開いた、弛緩した両脚の腿を指先でそっとたどりました。ひくんとふるえる腿に気をよくした僕は、彼の陰茎をくちで愛そうと決めました。 
 ひとりでに立ち上がった彼の、うるんだやわらかな先端。僕はそれを舌先で味わいたくて唇を開きます。桜桃のように色付いた海綿体に僕がくちづけるやいなや、彼はびくりと身体を震わせて、自分の下腹に僕がすがりついていることを信じられないとばかりに叫びました。こうして僕が彼に奉仕するのはこれが初めてではないというのに、いつまでも彼は慣れてくれません。

「やだ、くろこく、きたない……!」
「ひははく、ふぁひへふ」
「ひっ、あ……やだぁ、しゃべらない、で……」

 自分の腹についているものを口に入れるのは彼が初めてのことでしたから、僕は今でもこうしたことの勝手がわからないでいます。それどころか、身体を重ねること自体、僕は彼が初めてで。女性との経験だってありませんでした。彼が教えてくれたように、彼のしてほしいことをしているつもりではありますが、うまいか下手かでいえばたぶん僕は下手な方なのでしょう。それでも彼は僕のやることすべてが、まるでどれもきもちいいかのように振る舞ってくれるのでした。でも、その全てを僕への心遣いと決めつけるには、彼はあまりにひくひくと身体をふるわせて、僕にゆるしを求めました。
 いや、すき、もっと、おくまで。僕の指や舌やあれなどによって彼が泣きあえぐ姿は、言葉で言いあらわすことのできないくらい、僕の頭をとろけさせます。よく最後まで平静を保っていられるものだと、自分でも驚きです。
 さらにたちのわるいことに、彼は僕にされるがままでいるだけではなくて。
 僕の頭をやわらかく撫でていた彼の手が、つんつんと頭皮をたたきます。いつも根元までくわえることができなくて、さきっぽを口いっぱいに頬張っていた僕は、身体を起こす彼の姿を見ました。彼は眦から流れた涙を手の甲で拭って、ぶすっと言います。

「おれも、やる」

 そうなのです。僕が彼にやられっぱなしでいられないように、彼もまた僕にやられてばかりでは気が済まないのでした。腰をつけた僕の両脚の間にためらいなく顔を下ろした彼は、僕の陰茎をくちゅくちゅとねぶっています。さほど特徴のない僕のそれにむしゃぶりつくかのようにちゅくちゅくと。容易く根元まで含んでは、聞くに堪えないため息を漏らしながら舌とくちびるで擦り上げていくのでした。
 僕は彼のくちの動くままに声を上げたいのを我慢して、転がっていたローションを彼の突き出た臀部に広げます。僕の脚の間に額をすりつけるようにしてうずくまっている彼の臀部を暴くのはそう難しいことではありませんでした。
 本で読んだとおりに、彼の薄い粘膜を傷つけないよう、ゆっくりくぼみを慣らしていきます。彼と身体を重ねるようになってから、僕の爪はいつでも短く切りそろえられています。そうあるべきだと僕は習慣にしました。こんな繊細な場所で僕を受け入れてくれるんです。彼が苦しむことだけは絶対にしたくありませんでした。
 ローションのせいでぐちゅぐちゅと、僕の指と彼のそこからはずかしい音がちいさく響いています。彼はきもちがいいのか、僕の指が奥をこすって抜け出ていくたびに、くぐもった吐息をもらしては腰をゆらします。そうした彼の姿を見るのも、彼にくちで急き立てられているのも、彼のなかに入れないのも、そろそろ僕には我慢のできないことになっていました。彼のぬれたなかに指を埋めるだけでは、とてもじゃないがこの気持ちは収まらない。そう自覚して、僕は性急に白旗を揚げました。

「すみません、離してもらっていいですか……っ。僕、もう我慢ができません……」
「あ……っは、んっ……おれも、くろこくんの、ほしい……」

 唾液でべとべとになった彼のくちびるから、僕のそれがちゅるんと飛び出たとき、僕はよく自分を抑えることができたと思います。彼のくちのなかで熟したそれが、彼の顔のそばで姿をあらわにしていること自体、くるものがあります。それなのに。
 さきまで僕の物をくわえていた口が、僕を求めている。僕はふらふらになりながらも、かろうじて彼に同意を求めることができました。感情のまま彼に突き立てる、そうしたことは絶対にしたくなかったからです。

「……いれても、いいですか」

 寝転がった彼は僕の問いに、こくこくと首を縦に振りました。濡れたまなざしが、僕を求めて離しません。

「ちょっと、待ってください」

 僕は床に落ちたコンドームの束を拾い上げると、そのひとつをちぎりました。そのままゴムを傷つけずに封を開けようとしたのですけれど。 

「しなくて、いいから……」

 パッケージをつまんだ僕の指を彼がそっと覆います。

「おなか、壊しちゃいますよ」

 僕はいつものようにそう返しました。彼のなかに入る前に、僕は自分をゴムの薄い膜で覆わなくては気が済まないのです。お互い、性感染症にかかっていないことは承知の上です。ですが、僕は彼の腹の上に吐き出すなんて器用な芸当はできませんし、彼のなかに出してしまった場合の彼の負担を考えると、そのまま彼の中に入れるなんてことはできませんでした。
 彼は僕の答えに顔を背けて、シーツに逃げてしまいました。恥ずかしがっているのだと思います。こうして入れるときになると、彼は決まってそのままで、と求めるのです。おそらく、言ってみたいだけなのでしょう。そうした彼の姿が僕にはとてもいじらしく感じられます。

「する」
「氷室さんは、しなくてもいいんですよ」
「君がするなら、する」

 拗ねたように、彼がつっぱねた調子で、床に落ちた束を拾い上げました。そのうちのひとつを乱暴な仕草でちぎり取ります。僕は彼の手を取りました。彼がさっき僕にしたように、彼の手の内から四角い封をつまみ上げて。

「じゃあ、僕にさせてください」

 凍えた表情のまま、みるみるうちに彼の瞳に涙があふれていきました。どうして。あえぐように僕に問いかけます。

「どうしてきみは、そんなにやさしくしてくれるの」
「したいからしているんです」
「だって俺は……」

 僕は彼のくちびるに人差し指を押し当てて、まだ物を言おうとする彼を封じ込めました。
 彼が過去に何をしてきたか。気にならないと言えば嘘になります。でも僕には、今まで氷室さんが何をしてきたかよりも、今こうして氷室さんと気持ちを通じ合えることの方がずっとずっと大切なんです。

「しーっ、です。おとなしく僕につかまってください」
「くろこ、くん」
「おしゃべりはおしまい、ですよ」

 封を開いて自分につけるように彼のものにもつけていきます。彼は僕のよりもたくましくて、かぶせるのにちょっとだけ手間取ってしまいましたが、破くことなくつけることができました。
 ふたりして勃起した陰茎にゴムをつけている。端から見ればおかしな光景ですけれど、僕らは満ち足りていました。何を言われようと指を指されようと、もうどうだっていいんです。

「いいですか?」

 彼のうるんだ粘膜のそとがわに先端を押しつけます。彼はぼろぼろと涙をこぼしながらくちびるを手の甲で押さえて、こくんと。うなずきました。
 彼がひとり感情の渦に取り残されているのに、浅ましことですが僕は、彼のその姿だけで達してしまいそうになりました。彼を傷つけたくない、喜ばせたい。そう思っているのに、なぜだか僕の心は彼を痛めつけようと不意に転がり出すことがありました。そのかけらすら見せてはいけないと、僕は自分を律し続けています。そうでなければ僕は彼に何をしでかすか、こわくてたまりませんでした。
 暴れ出しそうな自分をなんとか制して、ゆっくり、ゆっくり。決して彼を傷つけないよう、彼の内側にはいっていきます。今日そこに入るのは二度目ですし、さっきも指で十分すぎるほど解しています。彼のそこは僕が力を加えただけ、ずぶずぶと僕を受け入れてくれました。ですが、僕のすべてを迎え入れた途端、きゅぅと。僕が欲しくてほしくてたまらなかったのだとでも言うかのように、やわらかく熱く熟れた肉をひたひたと寄せて、僕を包み込んでくれるのです。
 身体を重ねたのは彼が最初でした。叶うならば、最後も彼で。

「くろこくんやだ、そこ、おかしっ……なる……」
「このあたり、ですか」
「やっ、ら、めえ……そん、な、あぁ」

 僕が腰を動かすたびに、彼のろれつは回らなくなっていきます。僕は彼のいいというところを、ゆっくりゆっくり突き上げました。そうでもしないと、すぐに達してしまうからです。誰がって、もちろん僕に決まっているじゃありませんか。
 折り曲げた肢体をぎしぎしと揺らす彼の口から、あぶくのように嬌声が弾けていきます。すがるような声がいくつもいくつも僕の名前に爪を立てて、僕の心を揺らしました。
 歯の浮くような気障な台詞を並び立てる彼も、感極まったあまり泣き出した僕を慰めてくれた彼も、こうして僕にすべてを任せてくれている彼も、ぜんぶ、同じ彼なんです。僕は彼を、氷室辰也さんを愛しています。彼にどう思われていたって構わない。僕は彼を、僕の心のままに愛している。僕の身勝手なそれが少しでも彼を喜ばせているのなら、それで僕は幸せです。

「くろこ、くん……くろこくん、すき、だいすき、くろこくん……」

 しがみつくように首に回された腕の強さと、うわごとのように繰り返される僕の名前。いくつもの形で僕への好意を訴え続ける、彼のその舌足らずなあいしてるに、僕はぎゅっと眼をつむりました。

「ごめんなさい……っ、氷室さん、ぼくもうだめ……です」
「いい、いっぱい、して。いっぱい、おれがおぼれてしまうくらい……くろこくんしか、かんがえたくない」

 果てる前の嬌声にしてはどこか悲痛な叫びを以て懇願する彼に、ぼくはそっとくちづけました。 
 あなたが探さなくとも僕はこうして目の前にいて、僕こそあなたに溺れ果ててしまっている。そう伝えるために。
 唇の向こうで彼は確かに、ふっ、と。かすかに笑ったような気がしました。

 


 煩雑な後始末を後にあとにと追いやって、僕らはくちゃくちゃのシーツの上で長い間寝転がっていました。つながりを解いたあとでも離れがたくて、くっついています。男の場合、したあとはひとりになりたくなると聞きますが、僕と氷室さんには当てはまらないようでした。

「家では、こうしたことはできませんね」
「そうだね。でも、黒子くんのお母さんとおばあさんには本当にお世話になっているよ。ありがとうございますって伝えておいて。俺の家族、当分日本に来ないから、ああやって大人の人に世話を焼いてもらえるの、嬉しい」

 誰に向けるでもなく、やさしい顔を彼はしていました。いま彼は自分がどれほど穏やかな表情をしているのか、考えてみることもしないでしょう。そうした無意識のうちに浮かび上がる彼の心からの表情が、僕は好きでした。そのときだけ、彼のほんとうの気持ちを知ることができたからです。
 心の中にしまっていたことを、僕はとうとう言ってしまおうと思いました。僕は、彼の手をきゅっと握りました。こうして彼に触れていることで、彼から勇気がほしかったんです。彼は、急に手を握りだした僕から何が出てくるか、楽しそうに伺いました。

「くろこくん?」
「僕がアルバイトを続けてたのは、氷室さんも知っていますよね。それで、ちょっと独り立ちするお金が貯まりまして」
「そうだったんだ、おめでとう」

 僕は、ひといきに言ってしまわなくてはいけないと思いました。それで、そのまま。

「実は氷室さんと一緒に暮らしたいってずっと思っていて」
「え……」
「氷室さんさえよければ、僕と一緒に、暮らしませんか」
「黒子く」

 突然、ワルツが始まりました。有名すぎて誰でも耳にしたことのあるピアノ曲。エリック・サティの『Je Te Veux』。日本語に訳せば、きみがほしい。恋人と巡り会い、幸福の只中にあったサティ。彼の舞い上がり続ける心情が手に取るようにわかる、軽快で明るく、まるで日差しの下で恋人と両手をつないでくるくると回っているような、切なくなるまでに満ち足りた三拍子。
 それは、氷室さんの端末に登録された、火神君専用の着信曲でした。

「タイガ? どうしたの、何か用?」

 ベッドから飛び起きて、床に放ったズボンの中からスマートフォンを取り出すと、彼は相手を確かめることなく通話ボタンを押したようでした。僕に背を向けて廊下へと歩いて行きます。彼の口調には困惑が浮かんでいました。電話口の向こうの火神君が何を言っているか、こちらには聞こえてきませんでしたが、氷室さんは火神君を宥めているようでした。それも、こどもにするようなやり方で。

「わかってる、わかってるから。ああ、大丈夫だよ……タイガ、だいじょうぶだから……タイガ……」

 遠ざかっていた彼の背が止まります。彼はしばらく黙っていました。どうやら事態はあまり穏やかな様子ではないようです。彼が疲れ果てたように言い放ちました。

「ここじゃないといけないのか、どうしても。お前は俺に、そう望むのか」

 振り返って、彼があきらめたように戻ってきます。受話器は変わらず彼の耳に当てられたままでした。彼は様子を伺うことしかできない僕をちら、と見やりました。それから一度、堪えるように目をつむって、それからまた僕に向き合いました。

「……俺は、タイガから離れたりしない。黒子くんとは、一緒に……暮らさない。……これで満足か? タイガ」




 腕を引かれた僕は浴室に連れて行かれました。ジャケットから掴み出されて、床に叩き付けられたキーホルダーのことを思います。僕は初めて彼がキーホルダーを持っていたことを知りました。彼が床に叩き付けるまで、僕は彼がそんなものを持っていることなんかまったく知らなかったのです。
 使い込まれて落ち着いた革のストラップの先にひとつ、銀色の鍵がぶらさがっていました。何の鍵かはわかりませんでした。でも、窓の外に投げ捨てなかったということは、彼は再びそれを拾い上げるのでしょう。彼が渾身の力をこめて叩き付けたストラップを、彼はまた身につけなければならないのです。だから、捨てないのでしょう。怒りをぶつけることはできても、それが彼にとって捨てられないものだから。
 まるで、いつかあった出来事のようですね。
 さっきまでぬくもってした浴室は、回しっぱなしの換気扇によって涼しいくらいでした。湿気や湯気はすべて追い出されて、浴槽には泡の弾けたぬるい湯が僕らを見上げています。
 氷室さんがコックを回します。高い位置に掲げられたままのシャワーヘッドから、勢いよく湯が床へと飛び出していきました。どしゃぶりの雨のように、途切れることなくシャワーがタイルの床をばしゃばしゃと叩きます。氷室さんは浴槽の栓を抜きました。ごぼっと大きな音を立てて、入浴剤のとけた湯が排水溝へと流れ出ていきます。氷室さんは何も言いませんでした。風呂場は氷室さんがしたことによって、てんでばらばらに騒いでいました。
 僕はどうすることもできないまま隅で立っていました。彼が風呂場で何をするかわからなかったのです。彼が僕に何を求めているのかも、わかりませんでした。
 誰かを暖めることなく、シャワーから出た湯が排水溝へ流れていきます。誰も止めないので排水溝まで川ができていました。僕は浴槽のそばに立った氷室さんの後ろ姿を見ていました。彼は湯が抜けていく浴槽を見下ろし続けました。
 最後にがぼぼっとみっともない音を上げて、浴槽から何もかもが抜けました。氷室さんは浴槽に栓をし、また湯を入れていきます。どうやらまた風呂に浸かるために一度湯を抜いたようでした。いつもなら泡のはじけたお湯でも、こうして風呂を沸かし直すにしても、なにか言ってくれるのに。彼は黙りこくったままでした。まるで自ら唇を縫い綴じてしまったかのように、氷室さんは沈黙を貫き通しました。
 氷室さんが浴槽の縁に腰掛けます。僕は初めて自分の居場所を見つけたように、彼の隣に腰を下ろしました。シャワーは止めませんでした。すぐ後ろで湯を張る音が、じゃばばばとうるさく響いています。ふたりきりだというのにひどくうるさい浴室でした。彼はそうでなければ声を出すことができなかったのです。

「へんなこと、言っていい?」

 どうぞ。僕はうなずきました。

「俺と君とはたぶん似たもの同士で、本当はこうして愛だとか恋だとかで結ばれる間柄ではないと思うんだ」
「あなたが思う僕たちのあるべき形って、なんですか」

 彼は本当に困ってしまったと眉をハの字に下げて、僕に訊きました。

「……聞きたい?」
「あなたがこうして、今の僕らの関係を否定しようとするのでしたら」
「否定はしないよ。したくない。ただ……」
「なんですか」

 強いて形づくっていた目元の笑みがふっと消えます。それでも彼は笑顔でいなくてはいけないようでした。それは泣き笑いのようでした。笑い飛ばしてしまわなければやっていられない。でも笑い飛ばすには何もかもが足りない、そうした姿をしていました。だから困っている。そうなのだと彼自身が雄弁に語っていました。
 やあどうだ、聞いてくれないか。こんなにもおかしなことなんだけれど。

「わかっていたことなんだ。わかっていたことなんだけど、君と出会ってからもうすっかり俺はめちゃくちゃで、どうにもならないところにまでなってしまっていて。これからどうしたらいいのか、どうすればいいのか、さっぱりわからないんだ」

 彼は堰を切ったように喋り出しました。こんなに意味の通っていないことばを彼の口から聞いたのは初めてでした。でもこれが、彼のすべてで真実なのでしょう。彼自身でも把握できない混沌こそが彼を形づくっているのだと、僕は思わないではいられませんでした。彼のメッキがぱらぱらと剥がれていきました。
 剥がれたメッキもまた、彼自身です。むしろ、そのメッキこそが本来の彼なのでしょう。剥がれた部分から覗くのは僕の知らない氷室さんです。その氷室さんを知っている、いいえ、そうした氷室さんを拵えたのは。

「火神君が、関わっているんですね」

 耐えきれないとばかりに両手で頭をかきむしると、彼は考えるのをやめたように動きを止めました。生乾きの髪が彼の指によってあちらこちらに跳ねています。彼の指が頭から離れていきました。
 今の彼はまったくひどい格好でした。僕はそうした彼を初めて見ました。憐れで滑稽な姿をしていましたが、僕は彼を絶対に離したくないと思いました。こんな状態の彼を、誰がひとりきりにさせるものですか。彼が嫌だと言っても、僕は絶対に離さないと誓いました。だって、だってそうする以外に、僕に何が出来るんですか。

「黒子くん、金魚飼ったことある?」

 声だけならば何も変わらない、僕の知る氷室さんでした。僕は思い出の上澄みを掬って、いつもと同じように返しました。

「子供の頃に。お祭りで掬い上げたものを何度か」
「そうか。俺は飼ったことないんだ。俺が手に入れたどうぶつは、ただのひとつしかないよ」

 僕は、嫌な予感がしました。このまま何も聞きたくなかったのです。彼の口を塞いで僕の耳を閉じてしまって、そんなことなど出来やしないのです。僕は彼の心の動くさまを受け止めなくてはなりません。でも、できることなら今すぐにでも逃げ出したかった。
 だってそれは例え話のかたちをとった昔話で、しかもそれはこうしていまでも続いているお話なのでしょうから。

「鉢に入れられてしまった金魚は世話をしてもらえないと死んでしまうけれど、その金魚の世話を生きがいにしている人間にとっては、その金魚を生かすことだけが存在目的だ。そいつは金魚に生かされていると思わないかな」
「……どうでしょうね」
「金魚は赤くて、鉢から出たら死んでしまいそうな観賞魚のように思えるけど、あれは鮒を品種改良したものなんだよ。だからね、金魚をそのあたりの川やなんかに放すと、鮒に戻ってしまうんだって。綺麗な赤い鱗を、鈍い銀色の鱗に変えて」
「物知りですね」

 彼がはじめて、ふふっと気を抜いたように吐息をこぼしました。目をつむった彼が僕といつものやり取りを始めます。

「君ほどじゃないさ。俺は黒子くんほど本を読んでいない」
「知識は活字じゃなくても手に入りますよ」
「そうだね。でも活字から得られる情報は膨大だ」

 後ろで開かれた蛇口から、うるさいくらいに湯が流れ落ちていきます。そのくせお湯はまだ浴槽の半分も溜まっていませんでした。シャワーは床を叩きすぎてテレビの砂嵐を聞き続けているかのようです。たくさんの音の中に僕と氷室さんは紛れ込んでいるのでした。でも僕には彼の声だけがはっきりと聞こえました。そうじゃなきゃいけないんです。僕だけに聞かせるために、彼はこうして音の洪水の中に僕を連れて隠れたのです。

「俺がいなくたってあいつは立派にやっていけるはずなんだ。でも俺は、俺がいないでも十二分にやっていけるあいつを許せない」

 虫がよすぎるね、と氷室さんが笑いました。力尽きたように、諦めたように。僕はどうやって言葉をかければいいのかわかりませんでした。
 僕のためらいを感じ取ったように、彼が腰を浮かします。

「本当に悪いけど、ごめん……先に帰るね。金魚にえさをやらなくちゃ」

 僕は彼の手を握りしめていました。やっと僕から手を、つなぐことができた。こんな時につなぎたかったわけじゃないのに。でも今つなぎ止めないと二度と取り戻すことはできないでしょう。おかしいですよね。彼はここにいるのに。手を離せばどこかへ飛んでいってしまう風船じゃないのに。おかしいです。こんなのって、おかしい。

「嫌です。絶対に嫌です。あなたを帰しません。帰したくない」

 彼は僕から無理に離れようとはしませんでした。僕の手を振り解く代わりに、僕の頭を慈しむように撫でました。そうして、この人はやっぱりこんなことを言って。

「君だって歯の浮く台詞のひとつ、言えたじゃないか」

 眼球が溶けてしまったように熱く爛れました。僕はどうなろうとなりふり構わず叫び続けました。

「ええ言いますとも。あなた相手だったら、いくらでも言います。だから今夜、あなたが寝る場所はここです。いくらあなたが帰りたくても、僕が帰しません。……日が昇ってからでも、遅くはないじゃないですか……今夜だけ、僕だけの氷室さんでいてください」

 言葉だけ聞いていればまるでうらみごとのようです。でも、こうしてしまわないと彼はどこかへ行ってしまうでしょう。そんなのは、絶対に嫌です。彼をつなぎ止めるためならば、僕は呪いだってかけてしまうのに。ああだめです。こんな大事な時なのに僕は鼻がつんと痛くて目の前はぼやけていて、彼と違って気の利いた言葉の一つ口にできそうにありません。どうして僕はこうも頼りないのでしょう。どうして、僕は。
 後ろ姿の彼がぼそりとつぶやきました。

「きみに、あまえてもいいのかな」
「甘えさせているんじゃありません。僕が、そうさせているんです」

 ありがとう。
 彼は振り向きませんでした。僕は座ったまま、その場から離れることができませんでした。溢れ出る湯の音ばかりが湿った浴室に響きます。
 このまま時が止まってしまえばいいのに。
 金魚すくいのように、僕が彼をすくい上げることができたらいいのに。でも、僕の手にしたタモはすぐに破けてしまう頼りないもなかで、彼を掬うには彼の住まう生簀は深すぎました。僕にできることはタモをちぎって、彼に食べさせることぐらいでした。そうしてわずかな時間だけでも彼を満たして生簀の深さを忘れさせる。そんな一時しのぎのやり方しかできないのです。そうした一時しのぎのやり方で、彼は自分を保っていました。
 僕は、わかっていました。三年間、伊達に彼の相棒を務めていたわけではありません。氷室さんは悪くありません。火神君も悪くありません。ただ。

 火神君は、氷室さんにだけ、おかしくなるんです。