弟クンいてよかったアルね────

 ※ヘテロ(恋愛性的対象女性)の劉と氷室
 ※劉と氷室に女性経験はない
 ※氷室は火神と肉体関係持ちで、他にも複数人♂と性的関係を結ぶ



 平日金曜午後八時。
 金曜の夜から洗い物を始める寮生が何人もいるわけがなく、水滴の残るアルミの洗濯槽はどれも底を晒していた。明日は部活で、明後日は自主練習で半日部活。明々後日からは授業と部活の繰り返し。それであれば授業がないだけで気が楽だ。
 安物のプラッチックのカゴの底をさらうように中身をすっかりぶちまけて、持参した液体洗剤を注ぐ。団欒室、食堂、浴室。数時間後に始まる休日を前にした寮生で、寮はどこも浮足立つ。よほど急ぐ洗濯物がない限り人気のないこの部屋は落ち着いて居心地がいい。
 蓋の閉まった洗濯槽に水が注ぎ込まれる音が響く。二台分のそれを劉は何をするでもなくただ耳に入れていた。普段であればさっさと団欒室なり部屋なりに戻るが、なんとなく戻る気が起きなかった。
 同室の氷室も弟手製というふれこみのピクルスの瓶を持ち込んでいるし、劉もガムを噛んでいる。ここで寛ぐ用意だけは万全だ。壁に貼られた『団欒室・食堂・自室以外で飲食禁止』の注意書きは黄ばんでいた。
「劉はセックス好き?」
 まず男子寮であるし、脈絡もなく性欲を問うてきた相手は部活も部屋も同じで同年齢の、気のおけない同性である。顔とバスケの技術が異様に整っているだけの同性。そいつの、空の洗濯槽に腰を寄せて瓶から指の太さほどのピクルスをかじろうとする姿を前に、返答に困った。
 何を意図した問いなのか。この男の場合、答えを間違えると面倒なことになる。
 目の前の男は、酸っぱい溶液が垂れないようにつまんだ端を開けた口へ寄せる。棒状の垂れたなにかを飲み込むのに似た仕草。四角く切られた大根の端に溜まった溶液がひとつぶ彼の喉へと落ちていった。
 誰でもやる行為だ。それがこの男だと嫌に目に焼き付く。
「まずシたことないアルが」
 呆れを隠さず、半ば吐き出すようにして答える。事実をありのまま答えたのだから、文句を言われる筋合いはない。
 氷室は風呂上がりの髪を滑らせて顔を上げた。めずらしく素の、狐につままれた顔で隠れていない瞳がまるくこちらを見つめる。おかげでまだ大根には歯形がついていない。
「あれそうだっけ」
「そもそも大っぴらに言わないことアル」
「それもそうか」
 ひとくちで大根を収めてしまうと、頬と顎を揺らして美味そうに咀嚼する。この男は気取らずにいた方が好ましい。その分遠慮のなくなるのが玉に瑕だが。
「今日の保健の授業で性的マイノリティと性指向の話があっただろう」
「LGBTQ」
 レズ・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー、クィアもしくはクェスチョニング。尊重すべき多様性のひとつとして、性的マイノリティを指す言葉だ。
「劉はどれだった?」
「それ以外アル」
「見立通りだ、ありがとう。それで、俺は多分性欲が強いだけのヘテロだと思うんだ」
 血液型を答えるのと同じ気安さで、男としか寝ない男が真逆を答えたのだから、劉は素直に感情を吐き出した。いわゆる素っ頓狂な声で疑問と反論を呈する。
「ハア? なんでぇ?」
 氷室はカットされた人参を片頬に寄せて咀嚼しながら親切に説明を始めた。寝間着のシャツの襟からは銀の指輪が瞬いている。兄の好物を漬けた当事者がこの場にいたら泣いて喜ぶかもしれない。
「興味本位でしたセックスの相性がよかったのと、直腸を掘られるセックスの気持ちよさに勝るものがないっていうだけで……別に男が好きなわけじゃないんだ。尻にぶち込んでくれるなら誰でもいい。し、男とデートしたり結婚したりしたいわけじゃない。セックスに必要なディック・コック・ペニスを持っているのが男ってだけで」
「ああー? ああー……まあ……氷室オマエセックスしかしてないアルもんな。食う・寝る・バスケ・セックス」
 劉は寮の至るところで聞こえる氷室らしき男の嬌声を思い出しながら投げやりに相槌を打った。こいつは女の敵だけではなく、男の敵でもあるのではないだろうか。
 氷室は酢で変色したきゅうりを指の感覚だけでつまもうとして失敗していた。瓶の中で指先が虚空を掻いている。
「正直なところ人間でなくてもいいんだが、その辺りはいいとして。バスケとセックスがセットになってないと欲求不満で死にそうになる。で、俺が俺の尻の良さを知らないまま今まで生きていたらどうなると思う?」
「ええー……クラスメイトと付き合っているんじゃないアルかあ?」
「そこなんだよ。中学から高校まで手当り次第に抱くし孕ませるに違いない。でも正直子供とかどうでもいいから俺は反省しないし一人に落ち着かない。そのうち孕ませた相手に平手打ちされたりその子の両親に殴られたりするんだろうけど、俺は平手打ちされたら即顔に殴り返すと思うんだ。女の子でも。バスケが絡まないとすぐに頭に血が上るの、劉も知ってるよな」
 相手が自分の衝動を知っているのが前提と話を進めるが、これこそがこの男の無意識下で発揮される尊大さに違いないと劉は改めて感じていた。しかし咎めることはしない。咎めるには、二人の間ではあまりにも些細な事柄となってしまっていたし、劉もまたこの態度こそが氷室だと認めてしまうに至っていた。
 クラスメイトや他校の女子生徒を孕ませ、責任を取りもしないで平気で女の顔を殴る。
 その姿が実に鮮明に脳裏で再現されてしまったことに、劉は驚かなかった。前にも一度見ているし、その様はウインターカップの試合として衛星放送で記録に残っている。
 身近な相手になるほど手が出る男なのだこいつは。
「んーまーバスケ絡んでも頭に血が上るアルよォー」
「デートよりセックスしたいしセックスしたらバスケしたくなるしで、俺は絶対女の子を不幸にする。ってことに保健の授業で気づいて、今に至る」
「気づけてよかったアル。氷室のエロゲが作られなくて本当によかったアル」
「劉もそう思ってくれて嬉しいよ。今でも危ういのに完全に親から縁を切られてしまう」
「いやーガッコの連中も氷室がチンポ喰いでよかったって思ってるアルよ。うん。ライバル減って。むしろ性欲処理捗るアル。アレでもバスケ部では喰ってないアルね? ナンデ?」
 微妙に噛み合わない会話を続けながら、劉はふと浮かんだ疑問を口にした。陽泉に編入してからというもの氷室が手を付けた男は数知れないが、決して部室と部員には手を出していない。ちんぽが好きとのたまう男が、最も手近な棒に手を伸ばさないわけがないと思うのだが。
「あ、チームメイトには手を出さないって日本に来る時決めたんだ。地元のバスケ仲間全員と寝たらめんどくさくなって」
「あー。あー……ソレ卒業までヨロシクアル」
「頑張りたい」
 氷室のせいで男子バスケ部が酒池肉林となる様を一瞬想像して、劉はすぐに掻き消した。部員全員が氷室の竿兄弟は生理的嫌悪を通り越して殺意すら湧く。
 気持ちがよいからといって誰とでも寝るものではないと、真っ当な部類に入る劉は考えるのだ。世の中にはヤリサーやらセックスカルトといった不可解な団体があるそうだが、人間関係が面倒にならないのだろうか。歩くヤリサーもとい歩くセックスカルトである氷室は、当事者ならではの悩みを口にした。いつのまにか瓶の中身は酸っぱそうな溶液だけになっている。
「チームメイトってさ、一人寝ると全員寝ないと収集つかなくなるから面倒で。セックスはよかったんだけど、チームが落ち着くまで時間かかったなー。一回寝ただけなのに彼氏面してくるのも馬鹿だし」
 気だるげに短所を語る氷室の瞳には、当時の喧騒が写っているのだろう。溶液のついた指を舐めて吸う仕草に、劉の心はほんの少しざわついた。
「そいえばまだこっちの連中と続いてるアル? 弟クンとヨリを戻したアルよね」
「最近してない。結局タイガが一番相性合うみたいで。あいついない時は型取ったディルドでマスターベーションしてる」
「ほー……」
 手近な寮生と生徒会役員に出た被害も一応は落ち着きを見せたということなのかもしれない。オナニーで性欲が鎮まるのか、だとか、型を取ったディルドが部屋のどこかにあるのか、だとか、そもそも型を取れるのか、だとか。気になったことはいくつも頭に浮かんだが、劉は全てを飲み込んだ。いくつ疑問を重ねても、この男には意味がない気がする。意味を持たない問を重ねたところで、こちらが虚しくなるような気がして。劉は同室者として穏当な返答を適当に行った。
「まあ頑張れアル。教師に手を出してないだけ偉いアルよ」
「教員は面倒だからな。中途半端な権限を持つ大人と下手に関係を結ぶと本当に面倒臭い」
 その身を以て見てきたような答えに、劉は問うことをやめた。この男を知れば知るほど、こちらが深みに嵌まってしまう。そうした危惧が頭から離れない。
 彼の突拍子もない生き様を知れば知るほど、こちらが相手を支えてあげなくてはいけないような、そうした庇護欲に取り憑かれそうだ。取り憑かれた先にあるのは、その他大勢の末路と同じ。劉はいつまでも氷室の同室者でいることを望んでいる。
「う───ん。ま、俺がシアワセで氷室もシアワセならオッケーアル。ついでに弟クンと末永くおシアワセにー」
 いつも通り軽口を叩いた。これ以外、氷室に対する接し方を知らない。