コイツ腹立つアル



 二月十四日午後七時。
 人気のない生徒玄関を照らす蛍光灯が妙にまぶしい。上靴が床を踏むぺたりとした自分の足音しか聞こえない静けさは、昼の喧騒が嘘のようだ。
 外から伝わる寒さに身震いをして、自分の靴箱へと歩みを早める。部誌を書いていたために、すっかり遅くなってしまった。その日の活動内容はその日のうちに記して荒木に渡さなければならない。氷室は今日の担当だったことを、指摘されるまで忘れていた。
 職員室にも残っていた教員ももう片手で数えるほど。時計の針は刻々と食堂の閉まる時間に近づいている。早々に学校を後にして、暖房の効いた寮で一息つきたい。
 クラスの靴箱の列に着けば、暇を持て余した劉が白い息を吐いていた。もう外靴を履いてしまっている。見慣れたエナメルバッグの他に、手に下げた紙袋からはラッピングされたビニールが覗いている。劉は氷室を確かめるなり、素っ頓狂な声を上げた。
「お前チョコ……」
「今年はないよ」
 鞄を床に置いて、下足ロッカーから外靴を取り出す。今日の氷室は普段と同じように身軽だった。
 昨年の今日は、見かねた荒木からもらった段ボール箱に数え切れない菓子を詰めて、紫原に持たせた。そして寮に入ってから、そっくりすべてを渡したのだ。
 お返しをせずに大量の菓子をもらったと紫原は喜んでいたが、氷室には二度と御免被りたい出来事以外の何物でもない。日本に戻ってきてから迎える二度目のバレンタインデー。知恵を絞らねば。
「お前に限ってそんなことないアル。全部紫原に渡したアルか?」
「クリスマスが終わってからず――――――っと言い続けていた。『バレンタインデーには贈り物より心の籠もった挨拶がほしい』ってね」
 外靴を土間に置くと、ぱぁんと景気のいい音がした。構わず靴に足を入れて履いてしまう。
 劉は納得できないとばかりに非難の声を上げた。
「ハァ――――――?」
「アツシに全部あげてもお返しを考えることからしてもう面倒でね。昨年でこりたよ」
「ハァ――――――――――?」
 鞄紐を肩に掛け、身支度を整える。
 とにかく物は貰いたくなかった。物に込めた重く身勝手な思いも。人は与えた分だけ見返りを求めるもの。どうせ押し付けられるのならば、まだ気心の知れた相手だけにしておきたい。それだけで氷室の許容量は限界なのだし。
 おかげで今日は一日挨拶をしっぱなしだった。見知った顔から知らない顔まで、氷室なりに誠意を込めて返事をした。普段よりも表情筋を使ったせいか、あちこちが攣っている気がする。
 誰に何を言われようと、どう思われようと、氷室のバレンタインデーは終わった。終わりにするのだ。
「さっさと帰ろう。警備員さんに鍵を閉められる」
「乙女ゲーの攻略対象みたいなコト言ったとこで、どーせ本命からは貰ったアルよ」
「劉、君の言う本命とやらが俺にはさっぱりわからないよ」
 ぶつくさと垂れる劉の文句に軽快な高笑いをしながら、さっさと玄関の戸を開けて氷室はひとり外へ出てしまった。試合に勝った後でも見ることのない、人を喰った上機嫌な調子に、劉は残されたことも忘れて呆気にとられる。
「アイツこの一年でだいぶ自由になったアルな……」