あら不穏
①鏡開き
正月に備えていた鏡餅を下げて食べる日本の風習。毎年1月11日に行われることが多い。
②火神開き
正月に備えていた鏡餅を下げて食べる日本の風習に則り、氷室辰也が一方的に火神大我を割り開いて性的に捕食する火氷の慣習。鏡開きに合わせて毎年1月11日に行われることが多いが、気分で日付は変わる。
朝早く出かけていた兄が帰ってきた。
分厚いコートを着込んだ鼻の頭が赤く染まっている。長い間外に出ていたのだろう。車のヒーターでは暖められなかった。
冬の外のつめたい匂い。冬の朝のつめたい気配。そんなものをコートと共に纏う兄は冬がよく似合う。
「シャワー浴びてきたら? 寒いだろ」
「ううん、暖まれば平気」
コートを掛けてしまうと、何かと気に入って身につけている白のセーター姿でストーブの前に立った。
ざっくりと編まれた、それでいて分厚い白のセーター。兄は首元を覆われるのが嫌いだから、決まって襟ぐりが開いている。タートルネックは避ける。しかし火神が着るのはいいのだという。
まだ赤みの残るかじかんだ手をストーブの前でひらひらと広げる様は、煎餅を焼いているように見えた。
「朝飯食う?」
もう食ったと思うけど、という台詞はふきだしの内側に隠した。
「いいや、済ませた」
予想通り。兄は洗った皿すら拭いて戻してしまう。こちらのつけいる隙がない。食べ汚した皿やら食器やら、飲み終えた珈琲が底で濁るマグカップだとか、残して家を出てくれれば可愛げがあるというのに。
まるで足跡を消す動物のようだ。兄はあらゆる痕跡を消して火神の前から永遠にいなくなるのではないかと、ときどき火神はひやひやする。
火神の胸元に揃いの銀の指輪だけ残して、この世にあったことすら消してしまうのではないかと。
兄ならばやりかねないから、怖い。
兄はときどき、自棄のように全てを台無しにしてしまう癖があるから。
自分のために用意していたコーヒーを、兄のマグに注ぐ。砂糖もミルクもいらない。湯気がカップから細くのぼっている。
手渡せば、兄はゆっくりと唇を押し当てた。兄の指がカップの取っ手に絡むのを、火神はそっと眺めた。
「事務所の雪かきしてきて。昨日積もったから、少しは退けておかないとって思って」
そんなもの行政に任せてしまえばいいのに。市民としてそのための税金は払っている。兄は所有する敷地面積分の歩道に積もった雪まで片付けてきたのだろう。朝、道行く人が困らないようにと。
「ママさんダンプで?」
「まあね。少しは身体を動かしたかったし」
融雪槽に雪を入れて除雪することなど兄には平時のこと。家のことは火神が全てやってしまうから、外に出たかったのだろう。そのくせ横着で、兄ときたら雪かき用の手頃なショベルではなく一息に大きな器具を用いて雪を退かしてしまう。あれは辺りの雪をかき集めた後に、融雪槽なり融雪機なりにぶち込むか、もしくは道の端に押しつけるためのものなのだが。
身体の内側からも温まり、冷えが落ち着いたのだろう。ストーブから離れて、兄はソファへと腰掛けた。
窓を背にした三人掛けのソファ。兄はここでうたた寝するのが好きだ。寒いとストーブの前でも眠る。まるで犬のような振る舞いだ。妙なところで気を遣うのに、兄は基本的に大雑把。逆に火神の方が神経質な面もある。たとえば火神はアサリの砂抜きはしっかりしないと気が済まないが、兄は平気で砂利ごと身を食べる。干していた洗濯物をうっかり地面に落としてしまったら、火神はもう一度洗うが兄は砂をほろってそのまま畳んでしまう。銀婚式を挙げられるほど長い付き合いであるからいちいち目くじらを立てず、軽口で不満を指摘するのがコミュニケーションになっている。だからこのままでいい。兄も同じだろう。
コーヒーを啜る兄の隣に腰掛けた。
隙間を作る必要が?
「すっかり痩せちまって。まだ五日目だぜ?」
あからさまに兄の腰に手を回して抱き寄せた。兄はマグから液体が零れないよう、手早くテーブルへ避難させる。
年末年始と手料理を振る舞っているのに兄が肥える様子はない。この世界から兄の体積が目減りするだけで火神は悲しい。己より華奢な相手を組み伏せて支配することに、火神は喜びを感じなかった。火葬してもきれいな骸を晒す丈夫な兄がいい。
産毛のこまやかなうなじは死肉のように冷たかった。思わず火神は鼻先を押しつける。
兄の肌が冷たいと、こうして己の肌を寄せる癖が昔からあった。
どうしても兄の体温を分かち合いたくてたまらなかった。兄を人肌に温ませたかった。火神が冷たい肌に欲情するのは兄だけだ。兄でなくてはならないのに。
兄の冷たい肌がぬくまって、その分こちらの肌がぬるく冷える。そうすると肌という感覚器官で設けられた境界があいまいになる気がして好きだ。
兄を仕切る、兄と火神を別個の存在として隔てる肌が不確かになる気がして。
兄になりたいわけではなくて、ただ兄とずっといられる確証が欲しいだけ。
戸籍も違う、血も違う、歳も違う。共に同じ時に死ねるとも限らない。
互いを隔てるならば肌だけでいいというのに、どうしてこうも他人である証拠を並べ立てるのだろう。
その証拠に、兄の肌はどこもかしこも絹のようにするすると滑る。火神を嘲笑うように、この手の内に収まってくれやしない。
どれだけ貫いても穿いても手応えがない。
どうしたら兄を手に入れられるか、再会してからずっとずっと考えている。
腕の中の兄は火神にされるがまま、異なる体温を受け入れる。兄は火神の寂しがりを宥めるように、言葉を続けた。
「俺の会社なのに俺が動かないでどうするの」
「そういうのはタツヤの仕事じゃない」
道理の合わないことを理由にしている自覚はあった。まさしく子供が駄々をこねるようだ。それでも兄には甘えてしまう。なぜなら兄はひとつしか歳の離れていない幼馴染みを甘やかすことに長けているから。
「お前はいつまでも乳離れができないね」
「それがいい癖に」
拗ねた頬に口づけが落ちる。左に垂らした前髪がさらさらと頬に触れる。この口づけしか知らなくていい。火神はその先を求めるために兄をより深く抱きしめた。
温んだ兄の肌から兄の匂いがする。沸かした湯に混じる出汁のような。日だまりのぬいぐるみのような。
どうして兄はいつまでもいつまで経っても捉えどころがないのだろう。
兄は火神だけだとその口でその身体でその指輪で伝えてくれているというのに。
兄を得た確証がないから離れられないのか、兄を愛しているから手にした確証が欲しいのか、わからない。
どうしたって火神が兄に敵うことなどない。兄を失って生きていけないのはこちらなのだから。
それだのに兄は火神に根負けしたとばかりに両手を挙げる。
「まだ朝の八時だけど」
「学生ンときは関係なかった」
首筋に鼻先をこすりつけ、その先をねだった。学士を得てもう随分経つが、兄が欲しくなるのに年齢も時刻も関係ない。
火神の答えに兄は困り顔で苦笑したが、本心ではなかった。本気で嫌なら、真っ先に手か足が出ている。
「じゃあ、お前がその気にさせて」
*
レースの遮光カーテン越しに浴びる朝日に兄が照らされて美しかった。まともに目にすれば眩さにくらむ蜂蜜色のひかり。漂う塵ですら兄を輝かせるために存在している。
耳障りなソファの軋みを無視して、夢中で兄の身体を手繰った。
肌を噛む代わりに、兄の胸元で揺れる指輪を噛んだ。金属の嫌な感触がひとりきりの夜を思い出す。兄なら火神の望むまま噛んでも許してくれるだろうが、鬱血した情交の痕を目にしてしまえば抑えが効かなくなるのはこちらだ。この休み中ずっと兄に籠もっていなければ気が済まないだろう。
繋がれるだけつながったそこを浅く揺らしては兄を確かめた。
まだ序盤の低い声。
火神の首をマフラーのように包む腕が心地よい。
もっと手酷くできるのだけれど、そうするとすぐに終わってしまう。それはいけない。
揺らしながら頬を撫でた。前髪で覆っていない、兄の瞳をすぐに確かめることのできる頬を。
汗ばんだ肌に指が吸いついて、ようやく人間らしい質感になる。冬の気配はどこにもない。
開いた両腿を椅子として、その中心に貫かれながら向かい合って座する。兄が火神を見下ろすことのできるいくつかの姿勢のうち、正月にお決まりの姿で迎えている。
まだ仕事始めでもない、鏡餅を開く時期には早いというのに、兄ときたらいつもこう。
待ちきれずに火神をひらく。
ひとりでにどろどろに濡れた兄を扱いた。硬く張り詰めて、よくしなる。血色をよくして鴇色に染まる、どの女の腹も破いたことのない愛らしいそこ。
兄よりもわかりやすく、兄よりも火神に懐いている。なにせここ十年ほど火神しか教えていない。
火神の腹を汚す可愛いそれで音を立てれば、指を切ったように背を揺らし、整った眉を寄せる。
しゃぼん玉のように儚く淡い吐息が意図せぬ快楽に歪むのを間近で聞く愉悦。
どうすれば兄が手に入るのか、ずっとずっと考えている。
どうしたらいいのだろう。
どうすればこの人を繋ぎ止めておくことができるのだろう。
兄を思うことは奈落を思うことと同義で、幸せと苦しみがいっぺんにやってくる。
それでも手を伸ばさずにはいられない。
どれだけのたうち回ろうと、そうせざるを得ないのだから。
「お前また、むずかしいことを考えているね?」
兄の方がよほど難しい顔をしていた。火神の内面を代弁するように。
どうしてこうもお見通しなのだろう。
兄は火神の顔をその両腕で覆って抱きしめた。間近に迫る兄の身体で視界は薄闇に包まれる。何も見えない。
「タイガはちゃんと俺の弟なんだから──お前が望もうが恥じようが、手遅れだ」
力強い抱擁。塞がれた視界。思わず口走った。
「ほんとう?」
損得なしにまろびでた本音。
普段の火神であれば間違いなく避ける選択だった。それは兄に火神の素を曝け出すのと同じであったから。
火神には見えなかったが、確かに兄は微笑を浮かべていたことだろう。
満ち足りた面持ちで、眩いひかりを浴びて。宗教画のごとき恍惚を纏って火神を抱擁した。
兄が弟にするように、蜘蛛が獲物を喰うように。
「俺が飽きるまで、ちゃんと、ちゃあんと──大事にしてあげる。愛してるよ、タイガ」