「ごめんなさい」は言えるかな?
目覚ましが鳴る前に目を覚まし、寝台に弟を置き去りにして床を離れた。ベッドサイドに置いたスマートフォンを忘れずに。
四月も終わり、季節は初夏に切り替わっている。リビングのカーテンを開ければ、陽光が差し込んだ。空気清浄機のスイッチを入れる。もうすぐクーラーをつけることになるだろう。一年の大半を夏が占めている気がしている。
手早く身支度を整え、エプロンを身に着けた。調理台で大きな弁当箱を開く。重箱を思わせる、深くて大きな二段箱。選ばせたらこれがいいと弟が持ってきた。まだ新しさが容器のそこかしこに宿っていた。
鉄の卵焼き器に油を敷き、コンロの火をつけた。
朝食を兼ねたおかずを弁当箱に詰めていく。甘い卵焼きにサラダ、きんぴらごぼうに豆とひじきの煮たもの。これでも効率と手間と弟の健康を考えている。雨を思わせる音を立てて油の中で揚がる唐揚げの面倒を見ていれば、弟が起き出してきた。
「おはよ、タツヤ。弁当唐揚げ?」
「おはよう。このくらいないと部活まで保たないからな」
炊飯器から炊き上がりを知らせる、チープな電子音が鳴った。アイロンの掛かったシャツのボタンは全開で、着込んだシャツを露わに首元の指輪を覗かせる。堂々とアクセサリーを見せつける着こなしは校則違反だろうが、弟は三年間我を通した。
「朝からやべえじゃん。すげえうまそう」
「昨日のカレーに唐揚げ乗せていいだろ?」
「うっわやった! 食う!」
温めていた鍋からポコポコと煮えた音が聞こえている。弟は手にしたシャモジで五合の米をひっくり返した。ほかほかと上がる湯気の向こうで、大皿に米の山が築かれる。燃費の悪い弟が昼まで腹を空かせずにいるための日常風景。幸い弟は食べるのも調理も好きだ。
氷室が弟の部屋を間借りするようになってから、ひと月と半分が過ぎた。弟の生活習慣はほとんど変わらない。平日は十九時に終わる部活と勉強でくたくたで、出来合いのものを流し込む生活に氷室が入り込んだだけ。
朝早めに起きて朝食のついでに弟の弁当を用意するのは、氷室にとってさしたる苦労ではなかった。弟が登校して不在の間、部屋を片付けたり洗濯をしたりするざっくりとした家事も、弟の夕食を用意することも。
長い春休みの只中にある入学前の大学生とはいえ、基本的には無職だ。アルバイトをする考えもない。自ら設定しない限り、やらなくてはならないことはなかった。
火神のための家政婦じみた煩雑な家事は、氷室にしてみれば家賃の代わりだった。弟が対価としての金銭を受け取らないのであれば、弟にできないことをすればいい。
飯を詰めた弁当箱を重ねて仕舞う。箸とともにランチトートに収め、ジッパーを閉じた。
釜に残った飯を皿に乗せ、鍋に残ったカレーを適当にかける。弟が待つ食卓へ皿を運んだ。椅子に腰掛け、互いに向かい合って手を合わせる。機嫌のよい弟とともに食前の挨拶をした。
「いただきます」
氷室が食卓を共にするまで、弟は手を動かさない。食事が出来たてを逸しようと、ただ待つだけの時間を過ごそうと。
弟が求めているのは、家族ごっこだ。
玄関でシューズに足をつっこむ弟を見下ろしながら、ランチトートの持ち手を意味もなく撚らせた。
「部活遅くなる?」
「いや、なんもねえからいつも通りのハズ」
「遅くなりそうなら連絡入れてくれ」
「なんもねえ……ハズだけど、俺の帰り遅かったら、先に飯食って寝てて」
「よっぽど遅かったらね。だいじょうぶ、お前が帰ってくるまで待つよ」
靴を履き終えた弟が立ち上がる。弁当を渡そうとした手は空振った。身体に伝わる重みとともに、薄暗く覆われる視界。異なる体温が頬に触れる。背に回された腕の輪郭を触覚だけで追いかけた。
日向の匂いがする。猫のようだ。氷室も使っている柔軟剤の匂いがどうでもよくなるくらい。
抱きついているのは弟だった。氷室はようやく、弟の背に手を回してゆるやかに撫でた。共に暮らすようになってから、弟はしばし確認をするようになった。この腕の中に確かに氷室がいるのだと、その目でその声でその身体で。
惜しむように重みが消える。できることなら離れたくないのだと、何よりもその仕草が語っていた。暖炉の炎を思わせる暗い臙脂が感傷に濡れている。大袈裟だと笑い飛ばす度胸は、氷室にはない。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
弁当を差し出した。ドアの向こうへ消える前に振り向いた弟は、センチメンタルを押し込めて笑いかけた。
音を立てて鋼鉄製のドアが閉まる。気抜けした氷室は素足のまま三和土を歩き、鍵を閉めた。そこでようやく軽い溜息をつく。
卒業式を終えた後も寮に留まりたかったが、新入生を迎えることもあり、早々に去らなくてはならない。入学式は九月であるから、半年ほど身を持て余す期間がある。新しい住まいを探す必要もあったから、さっさとアメリカへ渡ってもよかったが、氷室は日本に留まった。
日常を送るための些末な事柄に追いかけられる生活から、少し離れたかった。日常を円滑に営むための生温い人間関係から逃れたくもあった。日本に留まったのは、ちょうどよかったから。ここでは、日本人であればあからさまな差別を受けることはなく、治安は言うまでもなく良い。安価で飯もうまく、金を掛けずに過ごす休暇先として、日本は手頃だ。高校生という義務から自由になった今だからこそ、日本のあちこちを見て回りたい気持ちもある。観光客として赴くならば、不満を感じることは少ないだろう。
そう考える人間は多く、都心部にある手頃な値段のマンスリーマンションはすべて埋まっていた。三月後半という引っ越しシーズンも輪を掛けた。予想していたことだが、都内でまともな仮住まいを用意するのは想像以上の困難だ。東京にこだわりがあるわけではないが、移動には何かと便利で土地勘もある。弟や後輩の付き合いで東京へ足を運ぶことが多かったために安易に東京を選んだが、まさか居住地を選ぶ段階でつまづくとは。
東京でなくとも千葉や神奈川、いっそのこと同じ東北である宮城に移ることも考えはじめた氷室は、そうした最近の出来事を何気ない気持ちで喋った。いよいよ卒業式を控え、退寮も近づいてきた頃だった。
幸い荷物は少ない。いざとなれば誰かの家に泊めてもらうのもいいかもしれない。
そんなことを場の雰囲気に任せて喋った。どうにかしてほしかったわけではなく、喋りたいから喋っただけだった。世間話に近しいそれ。あのとき、氷室は初めて弟に卒業後の話をした。
それだけだったのだが。
弟は軽い調子で氷室に同居を提案した。好意的で、積極的ですらあった。氷室の都合のよいときに荷物を送ればいい。こちらは今日から迎えられる、と。
困惑したのは氷室だった。弟に助けてもらいたくて現状を口にしたわけではないのだから。しかし、弟は乗り気で、既に氷室を迎えると張り切っていた。氷室はそれとなく遠慮したが、弟の提案は至極妥当だった。拒むことに何のメリットもないほどには。
弟は父親と暮らすはずだった都内のマンションに一人暮らしで、部屋は余っている。彼ひとりで暮らすには広すぎる物件だった。弟とは気心の知れた仲で、この部屋には何度も泊まって勝手知ったる住まいでもある。
拒む方がおかしかった。だからこそ、氷室は弟にこの話題を持ち出すのを控えていた。
こうなることがわかっていたから。弟に頼れば、すぐに解決する問題だった。
弟が嫌いなわけではない。血のつながりも戸籍のつながりもないが、氷室が弟と認めた男だ。誰よりもよく知っている。だからこそ、避けたかった。
弟は他でもない氷室との同居を願った。氷室でなくてはならなかった。弟が欲しているのは友人でも恋人でもなく家族だ。
呆気なく、それでいてどこまでも氷室に都合のよい条件で、仮住まい先は決定した。
ひとり喜ぶ弟の前で、氷室はあいまいに相槌を打った。どうして手放しに喜ぶことができないのか、考えたくなかった。どうしても弟は頼りたくなかった。それでも、弟に頼らなくてはならない矛盾。
弟への相反した思いは、一年目のウインターカップで決着がついた後も残った。仲直りをして、こうして昔のように弟と気安く過ごすようになってからも、氷室が抱えるわだかまりは消えなかった。
人に頼るのは苦手ではないはずだ。先輩である福井や岡村には何かと相談することが多かったし、紫原をはじめとした後輩には部のこまごまとした仕事をさせているし。同級生の劉とは同室でもあったから、なんでも話した。
昔は、弟が地元を離れるまでは──いいやあの時ではない。氷室がジュニアハイスクールに進級して、生活リズムが変わってから。それまで、弟は氷室の一番の親友だった。目に入れても痛くない、たったひとりの弟だった。
──俺はタイガの何に引っかかっているんだろう?
帰りの新幹線の車内で、弟と暮らすリスクに思いを馳せた。そのいくつかは杞憂では済まないだろう。弟とあの部屋で暮らすこと考えた際、真っ先に頭をよぎったのがリスクだったことに気がついて苦笑する。しかし氷室は金銭的なメリットよりも、弟の生活圏で弟と生活を共にするリスクを重要視していた。タダより高い物はないのだから。
氷室は弟の肉親よりも弟を知っている。そう断言できる自負がある。だから、弟との同居に付随するリスクを回避する方法も考えた。編み物をするように連綿と思索に耽れば、出来はともかくとして帽子やマフラーのような、形のはっきりとした結論ができあがるはずだ。
編み針を動かすように考えて、考えて。いまここにいた事実が一瞬で過去になる速度で流れていく景色を窓から眺めながら、氷室は思索を巡らした。
ふと──それは編み目を間違えて生じたちいさな綻びのように氷室に囁きかけた。
そこまでする必要があるのだろうか、と。
氷室は目を瞬かせた。睫毛がぱちぱちと触れて重なり拍手のようだ。これまでの価値観を一変させる問いだった。それが氷室から生じたことに、誰よりも氷室が驚いていた。
あらゆる場面で幾度も行ってきた弟への譲歩。当たり前にしてきたそれを疑問視している。
どうして? 氷室は混迷する己がわからなかった。どうして弟への譲歩を惜しんでしまうのだろう。弟を愛しているのに。氷室によく懐く、たったひとりの弟。よく手入れをしたキューのような男。ぴったりと馴染んで、氷室にしか触れさせない。操の固い楽器のような男。気恥ずかしい幼さを共通の思い出にした、たったひとりの幼馴染み。長い時間を共に過ごし、互いに何から何まで知り尽くした。愛着のある実家のような男。短絡的ゆえの威勢の良さが拙くて愛らしい。よく躾けた大型犬のような男。氷室を親のように慕う、氷室だけの愛しい弟。だのにどうして? 弟ほど氷室を好む人間など、いないというのに。
弟は愛おしい。よく手入れをしたボールのように、氷室に馴染む。
だから、なのだろうか。
氷室は今、弟が疎ましい。これまでも一緒だった。これからも一緒であるならば、一体いつ氷室はひとりになることができるだろう。
弟と共に過ごしたいのか、という問いの答えを素直に返せない時点で、氷室の心は傾いていた。見ない振りをして、気がつかない振りをして、波風を立てたくなかっただけ。
弟は液体を閉じ込めたガラス細工と同じで、一度どこかが綻びればいっぺんに台無しになる。頑丈だけれど脆い。特に、氷室のことになると。そうあれと願ったことなどないのに。
火神大我の兄であることを誇りに思っている。火神大我だけが、氷室辰也を兄と仰ぐだろう。あいつの兄であることが嫌になったわけじゃない。そうではなくて。
襟元の指輪を、鎖ごと握った。兄弟の証がそこにあることを確かめたいのではない。首に掛けて鎖で繋いでいることに嫌悪を抱いているだけ。自らこうしようと提案したせいで、今でも外すことができない。
忘れたふりをした古傷が痛んだ。仲直りを経た後も瘡蓋すらできやしなかったから、見ない振りをし続けていた。だから、いまだにふとしたときに血を流す。
全て終わったことにして、見ない振りを続けたかった。それはもう過去なのだと、決別できればどれだけ幸せだったろう。
時間だけが癒やすのだと、そう思っていた。そう思うことにした。こちらが我慢すればそれでうまく回っていく。
バスケはもういい。氷室に焦げるほどのジェラシーを掻き立てるのは弟だけなのだから。苦さを噛みしめながら己に向き合うのも、悪くはない。氷室だけの痛みは氷室だけのものだ。
そうではなくて。
年下の友達を殴ったために痛む右手。怒声を浴びせ、感情のまま首の鎖を引き千切った。
項垂れた友達はただ俯くばかりで、喧嘩別れをした、あの日。
弟と認めた男は、何も言わず氷室の下から去った。きっと、たぶん、永遠に。
父親の仕事の都合による転勤は急なことであったとはいえ、氷室に伝える時間は十分にあった。それだのに弟は、氷室に何も言わなかった。
一年目のウインターカップで、弟は氷室に謝った。氷室が手を痛めていたとはいえ、試合で手を抜いたことを。兄だからといって、本気でバスケに向かわないことを。
弟が氷室に詫びたのはそれだけだ。
細くはない鎖が首と手の間でピンと張り詰めていた。細くはなくとも憤りのまま引っ張れば容易く千切れることを、氷室は知っている。どれだけの輪で繋ごうと、たったひとつの激情には敵わない。
弟はそれを知っているだろうか。
コインロッカーの扉を閉めた。平日も休日も関係なく、東京駅は人で溢れかえって混雑している。利用客が多いということは、彼らが休むための店も増える。日本全国をつなぐ陸路の要所であるから、土産屋も充実している。店が多くなれば、駅ではなく駅テナントに立ち寄る客も増える。だからこそ、日本は鉄道駅を中心に栄えてきたのだと、模試に載っていた論説文を思い出した。
ICカードを読取り部に押しつけて、料金を支払う。ロッカーが並ぶ一帯を抜けた氷室は、思わず足を止めた。
雑踏に紛れるには鮮やかな水色だった。黒子が浮かべた困惑と同じ表情を、氷室も浮かべていただろう。
平日の昼前。弟の相棒は見慣れた制服姿だった。
「氷室、さん……?」
人違いだと口にするには遅すぎた。仕方なく、微かな苦笑を滲ませて答える。
「めずらしいね。学校行事かなにか? 黒子くんに限って、サボりじゃあるまいし」
「病院です。この近くに通っているところがあって。これから学校に行くんです」
鎌を掛けたつもりだったが、思わぬ真っ当な返答に納得した。このあたりならば、いくらでも個人経営のクリニックがあるだろう。用意していた言い訳だとしても自然だった。どの科に掛かっているのか聞くのは野暮だ。氷室は黒子がここにいる理由を額面通り受け止める事にした。
「こんなところで会うと思いませんでした」
「俺も同じ台詞だね」
いつでも切り上げることができる、挨拶でしかない会話だった。どちらもその場を動かない。「それじゃあ、」と別れの挨拶をする前に、黒子が口を開いた。
「お昼、まだだったら食べませんか? 学校には遅刻をしていくと連絡をしているので、少しくらい予定時間を過ぎても構わないんです。氷室さんにお時間があれば、ですけど」
「俺と……?」
どこまでも想定していなかった流れに、氷室は困惑を露わにした。この後の予定はない。強いて挙げるならば、ここから自然に、それでいて早急に離れることが求められるくらいで。
断ったとしても問題はない。ここで断れば予定通りに事が進む。地元では街中で誰かと出くわして、その流れのまま遊びに行くのがしょっちゅうだった。それだけ顔が広かったし、地元が好きだった。
相手は黒子だ。弟と最も近しい距離にある。だからこそ氷室を誘うのが不思議だった。
東京では黒子こそ顔が広い。弟やキセキの世代をはじめとした、同世代の人間を誘うならばまだしも、あまり付き合いのない氷室を誘うとは。氷室が弟の下で暮らしていることは、彼も周知のはずだ。
氷室を通して、弟に言いたい事があるのかもしれない。授業中に寝るなだとか、後輩の育成方針だとか。共通の知人である弟を抜きにしてふたりで話をするのは妙な気もするが、こちらに誘いを断る明確な理由はなかった。
「まだ十一時過ぎなので、お店もそんなに混んでいないかなって。本屋で買い物をした後は、立ち寄って本を読むんです。平日ですから、落ち着けますよ」
それとなく勧められる。ゆっくりできるのであれば、小休止にいいだろう。黒子の指摘通り、時刻は正午まで一時間を切っている。外に出かけたついでに昼食を済ませても、弟は気にしないだろう。黒子と共に食事をしたことを、黒子が弟に知らせない限り。
わずかに思案して、氷室は承諾することにした。最も身近な相棒から弟のことを聞くのも悪くない。ただし、釘は刺しておかなければ。
「いいよ。タイガに言わないでくれるなら」
黒子は驚きをほんの僅かに目を見開くことで示した。まるい瞳をぱちりと瞬く。
黒子が氷室を問うことはなかった。
「約束ですね。いいですよ。なんだか子供の頃のいたずらみたいで、わくわくします」
「面白がられてしまったな」
「でも、僕はちゃんと約束を守りますから」
差し出された小指の意図を理解した氷室は、そっと彼の指に己のそれを絡ませた。心の中で歌うリズムに指を揺らして、ぱっと離す。相手のペースに合わせたそれは呪いに似た仕草だった。
特にこだわりがなかったため、早々にランチセットを注文した。メインのパスタやピラフにスープとサラダとドリンクがついてくる、日本では馴染みのある昼食。平日の昼であればあるほど、安価でバリエーション豊かな食事を楽しめる。弟は料理が好きなこともあって自炊にこだわるが、氷室が一人暮らしをしたならば間違いなく外食が多くなるだろう。弟も氷室が越してくるまでは専らファーストフードの世話になっていたと聞く。
黒子が案内した店は雑居ビルの地下にあった。このビルが取り壊される際には店仕舞いを思わせる、古い店構えだった。喫煙可能だが、非喫煙者との席を分ける程度には配慮がされていた。
熱いおしぼりで手を拭いながら、店内を見回す。雑踏に紛れる程度の声量で交わされる会話、新聞紙をめくる乾いた音。確かに気負わずに読書ができる場だ。
「学校で、タイガは迷惑を掛けていない?」
第一声に我ながら苦笑した。会話に詰まった父親そのものだ。しかし、黒子との共通項は弟とバスケットボールなのだから、どうしようもない。
「火神君は火神君ですよ。真っ直ぐで、自分のエゴを貫くことに躊躇がない。だけれどたまに、振り返ったときに揺らぎますね。火神君が強いのは、自らを省みることができるから」
まるで、予め用意してきた台詞を諳んじるようだった。淀みなく的確。氷室は目を細め、黒子の語りに耳を傾ける。彼が誘ったのはやはり、弟の話をするためだった。
「僕はそう思うのですけれど、どうです?」
「さすが観察のプロ。的を射ているんじゃないかな」
「そうでしょうか」
黒子は目を伏せた。思案するまま言葉を続ける。
「僕は見るのが好きです。舞台に上がらずに見ているのが好きなんです。それも、観客席からではなく舞台脇で」
「黒子くん、『黒子』みたいだものね。ほらあの、人形劇で人形を動かす人みたいな」
氷室は授業で見た文楽を思い出した。絢爛な人形を主役にするために、操り手は黒い衣装に身を包み、更には黒い布を頭からかぶって背景となる。どこまでも裏手に徹する彼らを『クロコ』と呼ぶのを聞いて、氷室は妙に腑に落ちた。偶然だろうが、まさしく弟の相棒そのもので。
「ご存じなんですか?」
「授業で資料を見たんだ。古典のね」
「睡魔に襲われません? 火神君は最後まで起きていた例しがないです」
氷室は軽く笑いを漏らした。歴史に続いて多くの者が眠る教科だ。弟の寝入っている様が容易に想像できた。
「文法が違うから新鮮なんだ。むしろ、苦痛だったのは英語だよ。妙に畏まった文例ばかり続いて、その答え方から外れると点をもらえないんだから」
「でも、氷室さんのことですから、ある程度コツを掴んだのでは? そういうの得意そうです」
「まあね。留学生が多かったから、この手の悩みを抱えた奴はゴロゴロいたし」
「『この手の悩み』以前の火神君ってどうなんでしょう」
「あいつは昔から集団講義が苦手なんだ。勉強へのモチベーションも低いけど」
弟が苦手なのは講義ではなく集団への帰属だった。受け入れられて馴染んでしまえば愛されるが、その前に弾かれてしまうことが多かった。だからもう、氷室という幼馴染みに縋る必要はないのだけれど。
食事が届く前の待ち時間を埋めるための会話だった。猿の毛繕いに似た、コミュニケーションのためのコミュニケーション。果たして共通の知人という数少ない接点はアイスブレイクになっただろうか。
「氷室さんと暮らすようになってから、火神君は明るくなりました」
給仕が黒子の前に皿を置く。やや固めの卵の皮に包まれたオムライスから湯気がのぼった。赤く甘そうなケチャップが乗っている。母親が作るオムライスだ。
「先輩方が卒業して、部活では後輩ばかりで、気負っていたところがあったんですけれど、氷室さんと一緒に暮らすようになってから、彼が悩む姿は見たことがないです。後輩の指導で迷ってもすぐにみんなと共有しますし、何より気分のムラがなくなりました。火神君は一年生の、それこそ入ったばかりの頃から大分変わりましたけど、だけどどこか捨て鉢なところがあって。根がドライなのはそのままですが、ときどき見せていた皮肉屋なところが薄れました」
こちらを伺いながら語る口調に淀みはなかった。迷いなく話すことができるほど、彼は弟を見てきたのだろう。
氷室の前にナポリタンが置かれる。大ぶりなマッシュルームは缶詰だろう。赤いケチャップで味付けされたパスタはややもったりとした装いで、喫茶店ならではの仕上がりだ。
給仕が伝票をプラスチック製の筒へと押し込んで踵を返す。互いにできあがったばかりの料理を前にしながら、関心は他にあった。
「ずっとずっと多幸感に満ちあふれている。人って、こんなに変わるんだって驚きました。今まで流し込むみたいに、買い込んだ購買のパンを呑み込んでいた火神君が、氷室さんのお弁当だけはよく噛んで味わって食べるんです。まるで上等なお菓子か何かのように、箸で丁寧につまんで。手を合わせて食べ始める前から、ずっと機嫌がいいんです。にこにこと、とびきりの好物を与えられたように。僕はそれを向かい合わせにした机で見ています。毎日、まいにち」
理性が止めなければ気が済むまで繰り返したかったに違いなかった。弟の幸福な有様をその契機である氷室に聞かせてみせる口調ときたら、恨み言そのもので。
主だって口にしづらい居心地の悪さ。話題を変えようと口を挟む余地を彼は与えてくれない。黒子の話に耳を傾けながら、チリソースの小瓶を取る。蓋を開ければつんと独特の辛みが鼻をくすぐった。
「今までずっと、ひとりで自分のことをしてきたんです。お金があるのに誰かに頼ることをせず、そうでなくとも誰かを家に入れさせなかった。火神君は自分のことを全てひとりで行ってきました。だから、氷室さんに家事のいくつかを肩代わりしてもらって、随分暮らしが楽になったはずです。朝起きたら温かい食事が用意してあって、お昼ご飯の弁当を持たせてもらって、部活でヘトヘトになって帰ったら、明るい部屋でお兄さんが待っていてくれる。『おかえり』って、声を掛けてくれて、お風呂まで沸いていて」
水気のある赤いソースをパスタに振りかける。ケチャップで甘く味付けされたパスタに真赤の辛みが添えられて。
黒子がほんのすこし怪訝そうに眉をひそめた。話の腰を折ってしまったかと、氷室は慌てて小瓶から手を離す。
黒子が何を言いたいのか──。わかってしまったからこそ、その先を聞きたくなかった。しかし彼が口を閉じることはないだろう。
彼が氷室に話したかった話題。まさしく氷室に聞かせるからこそ意味を持つ話だった。
黒子もまた、弟というまばゆさに目が眩んでしまった。だからこうして、弟が最も慈しんでいる氷室を誘ったのだろう。
氷室に呪いを掛けるために。
「火神君、きっと、もうひとりぼっちの暮らしに戻れませんね」
廊下から物音が聞こえた。おそらくは浴室の戸を開けて脱衣所に出たのだろう。氷室はコンロの火を止めた。
部活を終えて帰ってきた弟に変わったところは見られなかった。氷室に怨み言を吐いた分、彼は約束を守ったのだろう。そういうことにしておく。
ランチョンマットの上に漬物の小鉢を置く。氷室と同居するようになってから、弟は夜遅くまで出歩くのをやめた。部活の帰りにファーストフードを食べることも、高架下のコートでボールを弾くことも。氷室が促せば、しぶしぶ宿題を広げるようになった。緑間から譲り受けた鉛筆を用いることなく、シャープペンシルの端を囓りながら、下手な字でどうにか答えを埋めていく。
弟に寄り添う人間がどれだけいなかったか、弟と暮らせば暮らすほどわかってしまう。弟に必要だったのは金ではなく家族だった。誠凛のバスケ部が幸いその役割を担ってくれていたが、それでも足りなかった。彼らはあくまでバスケットボールという競技における部活の先輩と後輩だったのだから。
親の役割を果たさない大人など星の数ほどいる。育てられないまま育った子供にしては、弟は上出来だった。それでも、弟に必要なのは懐にまで踏み込む家族で、弟もそれを求めていた。
弟が心の奥底、自らの弱点まで曝け出して甘えることのできる相手は、残念なことに氷室しかいない。それだけのことを氷室はこの男にしてきてしまったのだから。
リビングのドアが開いて、タオルでごしごしと濡れた髪を拭いながら弟が戻ってきた。ほんわりと湯船の熱気が伝わってくる。
「ただいま」
無造作な寝間着姿の弟がどこか潤んだ眼差しを向ける。コップに麦茶を注いだ氷室は、台所の前に立ったままの弟に差し出した。
「おかえり。ご飯でいいだろ?」
「ハンバーグ?」
「ああ。挽肉が安かったから。手軽だし、お前好きだろう?」
「すげー好き」
爪先立ちをして腕を伸ばして、タオルで弟の髪を粗雑に拭った。
「飯だぞ」
茶碗いっぱいによそった白米があっという間になくなっていくのを眺めながら、氷室は弟の話に耳を傾けた。ゴールデンウィークは合宿があること、合宿先で秀徳や海常と練習試合をすること、定期考査が近いので気分が下がっていること。課題をいくつも出されているのだと、眉をきゅっと寄せて呻いた。
「もう五月か。インターハイの予選も近いからな。タイガは気合いが入るんじゃないか?」
「先輩が見に来てくれるから、尚更下手な試合見せらんねえ。先輩、やっぱすごかったんだって、この頃すげえ思う。人に教えて、人に指示出すって、簡単にできることじゃねえ」
「お前ひとりでやらなくていいんだよ。困ったときは周りを頼ればいい。誠凛で過ごした二年間は薄っぺらな物じゃないはずだ」
偽りのない本心だった。同じ状況下の人間がいたとしても、ここまで心を砕くことはないだろう。それだけ氷室は弟を大切に思っていた。
氷室のフォローに我に返ったのか、弟はそっと目を伏せてつぶやく。手にした箸は宙で止まった。
「俺、タツヤに弱音吐いてばっかで、恥ずかしい……な」
「弱音でもなんでも、話せるのが家族なんじゃないか。俺がこんなことを言うのも、おかしいけど」
「おかしくねえから! 全然、むしろなんつうか、その、嬉しい……」
聞いているこちらの胸が苦しくなるほど、必死な否定だった。氷室にしてみれば軽い気持ちで出た言葉だ。そこまで思い込まなくていい。氷室も気にしていない。
だがこれは、間違いなく弟の譲れない琴線に違いなかった。
逃げるように伏せた目蓋がほんのりと赤く色付いている。氷室は微笑を浮かべ、促した。
「冷めるぞ? 腹減ってるんだから、まずは食べなさい」
「ん……」
手にした箸をハンバーグに伸ばしながら、窺うようにこちらをちらりと見やる。たまに、弟が向ける眼差しは幼馴染みのそれを超える。年上の者──まさしく兄や父に向けるものだった。機嫌を損ねないよう、望まれるいい子でいるよう、こちらの出方を探るそれ。
氷室は弟に恐れられたいわけでも、敬われたいわけでもない。しかし自ら課せたこの立ち位置は、氷室には窮屈だった。
あの後、氷室は考える羽目になった。黒子のせいだ。
弟のこと。弟との関係。それでいて、自分はどうしたいのか。
弟との距離は、どうにもならないほど近くて遠い。だから、誰も氷室の代わりにならなかった。同じように誰も弟の代わりはできない。
だから、考えた。弟のこと。自分自身のこと。
これからどうしたいのか。
まだ湿り気のある前髪に手を伸ばした。黒と赤に分かれた、特徴的な短い髪。いつも暖炉の火を思わせる。指は、さらさらとまとまりのある髪を揺らしていった。
「お前はひとりじゃないんだから、ね」
言い聞かせるように口にした。
流し台で食器を洗う。普段は食事をした弟が片付けるが、氷室は先に夕食を済ませていたので負担にならなかった。弟は隣で食器を拭いている。
排水口に落ちた生ゴミをざっくりと片付けて、ゴム手袋を脱いだ。棚から下がるクリップに吊したところで、背中から抱きしめられた。
腹に回された腕で青いエプロンに皺が寄っている。熱い鼻先が首元に押しつけられた。
「一緒に寝ても、いい?」
嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いがした。暖炉の前で寝入った犬を思い出した。アメリカに越す前のことだ。氷室が生まれる前から飼っていた犬は、氷室よりも大きかった。それ以降、犬とは縁遠い生活だ。なにせ、弟の天敵は犬なのだから。
弟の望みを断ることもできた。だが、氷室に断る理由はなかった。体温の異なる手に氷室はそっと己の手を重ねた。
セックスをする家族などいるのだろうか。
ぐずぐずに緩んで発情しきった粘膜を、何度も何度も擦られている。穿たれて貫かれて。自ら開いた脚の付け根に手を置かれている。それがまるで更に脚を開くよう促されているようで、嫌悪と愉悦が入り混じる。
身体も心も確かに快楽の果てを目指しているというのに、意識は別のことを考える。この場に似合わないことばかり。
弟に強要されて身体を明け渡しているわけではない。少なくとも氷室はそう思っている。限りなく兄弟に近い間柄でありながら、身体を重ねずにはいられない。生殖のためですらないこの行為は、一体何なのだろう。
弟が氷室を求めるように、氷室もまた弟を求めてしまう。そのタイミングがうまく噛み合わないだけで、求められれば応じるのはどちらも同じ。
家族ならば、唾棄するに違いなかった。もしくは端から笑い飛ばすか。ロマンスは他人だからこそ成立する。ならばこれは何なのだろう。セックスの名を借りた、互いに都合のいいマスターベーションに過ぎないのでは?
明け透けに投げ出した身体の端から端までを見下ろされている。間接照明の鈍い明かりに照らされた弟が、情欲と思慕に揺れる瞳で氷室の凹凸を眺める。こちらの痴態を舐めるように味わわれて、肌が粟立った。
他の誰かでは駄目だ。この男だからこそ、身体中が惚ける。嫌悪の混じった自嘲的な恍惚。
日本で再会したとき、こうなるとわかっていた。それでも喧嘩別れのままでいられれば、兄弟の一線を保つことができる。かつて身体を弄りあった過去を幼さゆえの戯れと片付けることができた。
それなのに。
ふたたび、外に求めるべき関係をふたりで完結させようとしている。氷室も弟も、弱さまで曝け出して甘えることができるのは、互いしかいなかった。過去の甘やかな思い出に浸りながら、決して裏切らない肉を擦りつける。微睡みの中で身体を寄せ合っている間は、幸せでいられたから。居心地のいい世界に閉じこもることほど、幸福なことはない。
繋がった狭いそこで出されたものを泡立てられて、毛穴という毛穴から汗が噴き出しシーツを濡らす。薄闇で悶える肢体は弟の嗜虐を掻き立てるに違いない。
切羽詰まった互いの呼吸で鼓膜が塞がれる。家族ならば。相手を思う家族ならば、この不健全な関係から逃してやるのが正解ではないのか。
結局のところ他人だから、こうして未来のない泥濘に留まり続けるのでは?
下腹部がびくりと揺れる。向きを変え、姿勢を変え、絡まるように肌を重ねる。互いに果てが近いのは、互いの身体を掴む手の力でわかっていた。
考えない方が幸せなのに、思考は巡る。己に嫌気が差すほどに。弟と最も深く繋がっているというのに、この意識は外界との乖離ばかり気に掛ける。
このまま、いつまでも幸せにいられるだろう。少なくとも弟が氷室に飽きるまでは。弟は疑いなく氷室を慕っているのだから。バスケットボールという共通のスポーツを楽しめなくなったとしても。
弟は氷室に盲目なのだから。
だから。
「ゴールデンウィーク、最終日だけ部活ないんだ。だから、どっか出かけねえ?」
気怠げな重い身体をそのままに、氷室はぼんやりと瞬きをした。上睫毛と下睫毛がぱっちりと重なるほど、ゆったりとした動作。
遠くに出かけたいのではなく、家族の氷室と共に出かけるという思い出を作りたいがためだとわかっていた。弟は嬉しくて仕方なかった。大学に進学するまでの間とはいえ、弟だけを見てくれる家族と共に暮らしているのだから。
弟は家族ごっこがしたかった。周りが当たり前にしている家族の記憶を、弟もまた拵えたくてたまらなかった。弟が欲しいのは物でも恋人でも、バスケットボールの技能でもなく、自分を迎えてくれる家族がいる風景。家族のいる日常。あたりまえの普通の生活。
弟は決定的に周囲と馴染めないのだろう。だからこうして自らを理解してくれる氷室を求める。
先までの明瞭な意識が嘘のように、氷室は眠気の靄に包まれていた。相槌のような、同意のような、意味を成さない母音を漏らす。
「どこに行きたいんだ?」
「どっか。どこか、ちょっと遠く」
ゴールデンウィークなど、どこも混んでいるだろうに。弟は気にならないだろうか。
薄れていく意識をどうにかして繋ぎ止めながら、氷室はどうにか返事をした。いいよ、と。弟の誘いを受け入れた。
弾んだ声。吐いた息の形が喜びを示している。一変して喜色を湛え、瞳を輝かせているに違いない。
弟の指が氷室の額に落ちた。垂らした前髪を静かに寄せる。露わになった額に、そっと口づけが落ちた。
眠気を追い払うように、氷室は大きく瞬きをする。
「どこに行きたいか、考えて」
自分でも何を喋ったのかわからなくなっていた。下腹に伸ばされていた腕が、一層強く氷室を囲う。背に弟の肌が重なった。体温の異なる肌は暖炉のように温かかった。
吐息が近い。愛でられていて、愛されている。占有欲に彩られた所作に、弟は気付いているだろうか。
雁字搦めに抱き寄せられて、甘えられて。窒息しそうなほどの溺愛に、氷室は目を閉じた。氷室が何を言おうと、気が済むまで離してくれやしないのだから。
「いってらっしゃい」
靴を履き終えた弟に弁当を渡した。三和土に立つ弟は氷室を前に眉を上げると、晴れやかに笑った。口角が上がる。今日は感傷に浸っていなかった。憂いが除かれて、楽しみがひとつ増えたからだろう。
弟がしたくてたまらなかったこと。連休に、氷室という家族とともに出かけるという、凡庸で陳腐な、かけがえのない楽しみ。
「いってきます」
氷室が渡した弁当を手に、玄関を出る。金属質な重い音を立てて、ドアが閉じた。
蛍光灯の明かりをつけているというのに、玄関はドアが開いている間が最も明るい。外から差し込む光の中に溶けた弟を見送ったここは、静かで暗くて何もなかった。
ゴミを捨てるためのサンダルに足をつっかけて、ドアの前まで歩いた。鍵を掛ける。氷室ひとりきりの静かな玄関で、硬い音が確かにかちりと響いた。
ふたりぶんの食器の片付けをして、洗濯物を干した。室内用の物干しを置いても広いリビングが窮屈になることはない。掃除機を掛けて、フローリングを拭いた。広く取られた窓から朝のひかりが差し込んで、宙を舞う埃さえきらきらと眩い。
気に入っているナップザックを開いた。ウエットティッシュにハンカチ、バッシュに写真の束、身分証に印鑑。必要な物だけを詰めた。開けた収納ケースから、後輩からの寄せ書きやら卒業アルバムといった、嵩張るくせに処分しづらいものが覗く。見なかった振りをしてケースを閉じた。
ジャケットを羽織り、歩きやすいカジュアルなレザーシューズを履く。首元に手を当てれば、当たり前のように銀の鎖とその先に通した指輪がある。
身支度を調えてから、振り返って三和土から廊下を眺めた。誰もいない室内としての調和を保った景色。互いに切羽詰まってここで足を絡めたことを思い出す。過去の残滓に火照った熱はすぐに冷めた。
問題のないことを確かめて、ドアを開ける。鍵を閉めた。外側から。部屋の外から。
まだ週の半ばだというのに、変わらず東京駅は大多数の有象無象で混み合っていた。氷室は昨日来たばかりのロッカーを操作し、解錠を選択する。読取り部にICカードを当てればロックが外れた。ドアを開けて荷物を取り出す。四つの小さな車輪が床を転がした。スーツケースだ。
ポケットからスマートフォンを取り出し、アドレス帳から弟の連絡先を開く。溜息に似た心地で息を吐いた。ちいさく、小さく。ほんのわずかな後悔と躊躇と憐憫。
弟を指先で着信拒否にした。
そのままスマートフォンの電源を落とした。電源バッテリーを外して、ナップザックに放る。代わりに、新しい端末を取り出して電源を入れた。
カートを転がして改札に向かう。発券した切符を通し、ホームへ向かった。連休にはまだ遠いというのに、ホームには既に列車を待つ列ができていた。個人の都合に暦など関係ないのだろう。
窓から景色を見ているうちに、滞りなく空港に到着した。日本らしい小綺麗な箱菓子を土産として買い求め、トランクに入れて預けた。離陸便の一覧が表示される大きなモニターに遅延の文字はなかった。運が良かった。基本、飛行機での予定は当てにならない。普段と異なり、行き先は近所でもあったから身構えることはなかった。そもそも氷室は旅行のために万全の荷造りをするタイプではない。資本主義経済があらゆる地域にまで蔓延した時代なのだから、必要な物はその場で買い求めればいい。
道すがら本屋を見つけたので、適当な文庫本を買った。ポケットに入る大きさと薄さが気に入った。読み終わるまでは暇つぶしになる。
列に並んで保安検査を受ける。出国審査は簡単だった。観光だと伝えればそれで良かった。どれだけ円の価値が下がろうと、まだ日本のパスポートは優秀である証拠だ。
搭乗口近くのベンチに腰掛け、窓から飛行機の離発着を眺めた。もうすぐ昼だ。定刻通りに搭乗口が開き、機内へ乗り込もうとする人々の群れで列ができる。そのひとつとして氷室も足を進めていれば、席に着くのは容易だった。
座席から座席への移動。快適で迅速な移動手段を得た結果、人々は腰掛けたまま旅をすることが可能となった。その土地へ来たという実感も感慨もないまま、移動の結果として目的地へと到着する。困難も苦難もなしに。それは旅と言えるのだろうか。
離陸した飛行機の座席に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めた。眩い青空に浮かぶ雲しか見えない窓は、海中を進む船の窓から見る景色に近いのかもしれない。
機内サービスの奉仕に追われる客室乗務員から飲み物を受け取る。適当に相槌を打って手にした紙コップには紙ナプキンが添えられていた。めずらしいと思いながら改めて確かめれば、鮮やかなカラーペンで記された十一桁の数字。それが何であるかを理解した氷室は、思わず吹き出してしまった。弟がいなくなった途端これだ。こちらは、誰が手渡したのかすらもう覚えていないというのに。
首元に垂らした銀の鎖をそっと撫でる。弟も同じものを身に着けている。見せびらかすように同じアクセサリーを身に着けた男がふたりで並んでいる様を目にしたら、誰だって口に出すよりも先にその意味を理解するものだろう。
氷室は飲み干した紙コップの底に丸めた紙ナプキンを入れた。なんだか馬鹿らしかった。案外世の中もそういうものなのかもしれない。
構われるのも、こちらが窺うのも面倒になった氷室は目を閉じた。眠るつもりはなかったが、次に目を開けたときには到着のアナウンスが流れていた。あっという間のフライトで、日本を離れたという感傷すら沸いてこない。
赤いパスポートを見せて観光だと告げれば、行きと同じように入国を許可された。ロストバゲージは免れたようで、見覚えのあるスーツケースを引き上げて発着ゲートを抜ければ、大勢の人間に交じる彼をすぐに見つけることができる。
一昔前の香港映画で掛けるような野暮ったいサングラスが目立つそいつは、歓迎ボードを掲げて立っていた。背が高いから周囲から頭ひとつ抜けている。
「『歓迎 氷室辰也』。なあ、様がないんだけど」
「お前に気を遣う必要はないアル」
どこかムスッとした佇まいだが、普段からこの男はこうなので氷室は気にしていなかった。途端、破顔しておちゃらける。
「出国おめでと~~~~氷室~~~~~。よく来られたアルな」
「日頃の行いが良くてね」
「悪運が強いの間違いアル」
軽快で軽薄な友人の声にどこか救われながら、肩の力を抜いた。飛行機が異国の地へと辿り着くまで、気を張っていたことに今更気がつく。
どこで弟が出てきてもおかしくなかったから。
「本当に来たアルね」
劉は氷室を窺っていた。それは気遣いに満ちたものだった。
氷室が下した選択は、ある種の決定的な断絶をもたらす可能性を多分に孕んでいた。だけれど、それでも、氷室はせざるを得なかった。
かつて弟が何も言わずに氷室の前から去ったように、氷室もまた弟の前から姿を消す。そうしてやっと、氷室と弟は対等に向き合うことができる。少なくとも氷室はそう感じていた。
弟が最も満ち足りた時を選んだのは、負債の利子だと思えばいい。
友人が気に掛けているのは氷室と弟の関係に違いなかった。なにせ氷室はこのまま、新学期を迎えるつもりなのだから。
弟は傷つくことだろう。黒子が語った以上に。弟を癒やせるのはきっと、氷室だけなのだから。
だけれど。
「俺が途中でやめることなんてあった?」
引き返すことなど有り得ない。それだけのことを、あの時弟は氷室にしたのだから。
弟が氷室との関係を終わりにしたように、氷室もまた弟との関係を終わりにする。
部活を終えて、誰もいないリビングで立ち尽くす弟を思うと、氷室の瞳は喜びに潤む。
あの男が真に氷室を欲するのならば、何をしてでも探し出すはずだ。
そうして初めて、氷室の溜飲は下がるのだろう。おそらく、たぶん、きっと。
そうなることを氷室もまた願っていた。
そうならなければ、それはそれで。
それでよかった。離れていても、氷室と弟は兄弟であることに変わりはないのだから。