仕方ない、ね?
誰が言い出したのやら、もはや忘却の彼方であった。窓の外は大型連休に相応しい青空が広がるも、どこか気怠げな眩さだった。くすんだ窓越しに景色を見ているようで、車を運転する氷室は些か落ち着かなかった。無造作にちぎった雲はどこまでも細くたなびき、気の早い鯉のぼりを連想させる。天候の変わりやすい春らしい景色だと称してしまえばそれまでだが、指先にできたささくれのように気に留まる。気が散る。手放しに受け止めるには奇妙だ。
氷室はひとり、ホラー映画の導入を思っていた。ハレの日だというのに居心地の悪さを味わい続ける、あの感覚。助手席の弟には言わないでおいた。フィクションであろうと、弟は常に超常現象に敗北する。
整備された駐車場に車を停めた。この自然公園は広大で、外縁にいくつかの駐車場が用意されているという。ちょうど昼前であったが、氷室の他に車はなかった。国道すぐの駐車場もあるというが、待ち合わせ場所へ向かうにはこの駐車場から行くのが近い。
「黒子くん、もう着いているかな」
ふたりで乗るには過剰な広さのジープのエンジンを落とす。四輪駆動で悪路も駆けるこの車を選んだのは氷室だ。シートベルトを外した火神は迷いなく口にする。
「連絡来てねえし、来てると思うぜ。弁当持ってくな」
弟がここまで誰かに信頼を寄せるのは、恐らく初めてに違いなかった。少なくとも氷室は知らない。
しばらく見ないうちに弟は変わった。入部したときから弟を知っている誠凛高校男子バスケ部の面々からすれば、『更生した』のだそうな。そこに弟の相棒である黒子が深く関わっていることは、氷室も承知している。
弟が誰かを迷いなく信じている。兄である氷室以外を。他人を。
疑念を抱くことなく信頼できる友人が、弟にいる。それは、氷室にとって好ましい事実だった。この弟はもっと世間を知り、ほんの少しでも世間に頼ることを覚えなければ。いつ氷室がいなくなっても困らないように。
運転席から降り、火神とともに後部座席から荷を取り出す。前日から用意して今朝方完成した、重箱に詰まった弁当は作り手の火神が持った。よって、氷室はその脇に乗せた大きなトートバッグを引き上げる。レジャーシートやらクッションやら、そういった類いのものを。幸い、降雨の気配は遠く、屋外で過ごしても問題のない陽気だ。自然の只中に寝転がり、微睡みを楽しめる。
クーラーボックスを担ごうとすれば、一足先に弟に取られてしまった。火神はこうして何かと氷室に重い荷を持たすまいと、率先して動いた。そうしたとき氷室はほんの少し、礼を口にすることに素直になれない。
静かだった。住宅地に面した駐車場だからかもしれない。案内用の看板を頼りに、公園へと足を踏み入れる。近づく背の高い木々に先導されるように歩いた。
春らしい景色だった。芝生は青々と茂り、風は凪いでいる。頬を通り過ぎる気配はどこまでもやさしい。
「走るのに良さそうだ」
付近の住人には便利だろう。犬の散歩やらジョギングやら、そうでなくとも子供を遊ばせるのにちょうどいい公園だ。遠くには広場が見える。芝生に覆われて、居心地が良さそうだ。
濃淡のばらばらな桜がはらはらと花弁を散らしていた。もう葉桜になるだろう。
人の集まる公園と違い、出店がなかった。だから見頃を終える花々をあるがままの姿で──公園の景色のひとつとして眺めることができた。
「人気がないな」
弟の言葉を肯定する。気配どころか人影すらない。鳥のさえずりこそあれ、静かだった。
「場所が悪いのかな」
犬のリードを引く人間とすれ違ってもおかしくなかった。風が頬を撫で、梢を揺らした。布ずれを思わせる木々のざわめきが、静かな公園に響く。地を踏むふたりの足音だけが変わらずに続いている。氷室も火神も気安いシューズだ。
「とっておきの穴場──彼がそう言ったんだよね?」
氷室はこの地を選んだ黒子の文句を思い出していた。正確には彼の口からではなく、弟から聞いた。
「だからこそ死ぬ前に行ってみたい、とも言ってたぜ」
不穏な言葉に足を止めるつもりだったが、引き返すには遅かった。芝生の広がる広場に桜が咲いている。それも散ることを知らないように、今が見頃だと鮮やかな桃色を薄陽に晒して。
広げた枝の影となる位置にレジャーシートが広げられていた。目にしていながらもその色を忘れてしまいそうな凡庸な色地に、ころんと枝から落ちた芋虫のごとき有様で物体が転がっている。
それは寝袋だった。質量も密度も伴った、中身の詰まった寝袋。
「おはようございます。花見日和ですね」
微動だにせずこちらに向けた眼差しは、喜びも嘲りも浮かんでいなかった。それは弟の友人である黒子テツヤの普段の姿だ。不出来な人形のように彼の顔だけがにゅっと露わだ。
「なんつーカッコしてんだ」
「僕は影が薄いでしょう? 本を読んでいたら広げたレジャーシートにも気付かれないのではと思いまして、こうして目立つ姿を試みた訳です」
「そもそも人がいないけど」
面妖な友人にかかりきりな弟を放り、氷室は広場を見渡した。黒子の指摘通り、花見に相応しくはあれど、現登場人物は既知の三名のみ。早くに足を運んで場所を取る必要などなかっただろうに。
「おふたりが来る前、興味本位でうろつく方はいたんですけどね。桜だけ見て帰ったみたいです」
「まーキレイだもんな。遅咲きだったんかな」
「道中の桜と同じに見えるけど。場所のせいかな」
「さすが氷室さん、いい洞察です」
「君に褒められても嬉しくないなあ」
「腹減ったしメシにしようぜ」
火神の鶴の一声で、花見の支度が始まった。黒子が広げていたレジャーシートは十分な広さがあったのでそのまま利用することにし、おのおの昼食の準備を行う。芝生が柔らかかったので、火神は用意した板の上に重箱を広げた。デリカシーがないと女性陣から非難されることの多い弟だが、こうした細やかなことには気がつく。氷室は重箱に埃が飛ばないよう、注意して座布団を投げた。寝袋から這い出ようと四苦八苦する黒子の腹に当たるも、もはや誰も何も言わない。
三人分の支度はふたりであっという間に済んだ。黒子が髪に癖をつけたまま座布団に腰掛けた頃には、手を合わせるのみとなっていた。
「寝癖みたいになってるよ。実際そうか」
氷室は明るい空色の髪を手でぺしょぺしょと押さえつけてやった。黒子は片目を瞑って猫のように受け止めている。猫であればまだ可愛い。
「ほい手拭き」
「ありがとうございます」
「黒子くんコーラでいい?」
「さすがに最初の一杯はお茶がいいです」
「お前最後までお茶だろ」
紙コップは嫌いな氷室の希望で、プラスチック製のコップに注がれた飲み物を三人で掲げる。
「かんぱーい」
ゆるい合図で宴が始まった。火神は早速皿に取った稲荷を頬に詰め込んでいる。
「タイガ、茎わさびおいしい。枝豆としらすもおいしい」
「意外とイケんだな。ごま油ひたひたにしたごまのやつやべえ」
「唐揚げおいしいです」
食い意地の張る輩や競争を仕掛ける輩がいないため、火神は落ち着いて食事を取っていた。黒子は小食で、氷室は特筆すべき事がないほど年相応の食事量だ。弟が好きなだけ好きなように食事を取る姿に、氷室は微かな安堵を覚える。
「弁当って意外と難しいよな。前日のおかず詰めりゃあいいっつうけど、冷めたら不味くなるもん入れられねえから頭使う」
「行楽弁当はレンチンもしないからなあ。俺は大概冷めてても気にしないけど。日本の食事うまいし」
「ささみにチーズと大葉挟んだのおいしいです。火神君、下手なチェーン店の定食屋よりおいしいですよ。自信を持ってください」
「ゆで卵が得意料理の黒子に言われると説得力あるぜ」
繊細な味付けから遠い環境で育った氷室は外見に反し、食べることができて栄養価が担保されるのであれば何であろうと口に運ぶという気質がある。ただし、食後の口直しにステーキを焼く男だった。一方、生活力がない代わりに何かと口うるさい黒子は、実家を安住の地としている。その黒子が褒めるのだから、火神の腕前は認められるものだろう。この場で火神だけが真面目に弁当の工夫について考えていた。
「ところで」
氷室はサラミを囓りながら口火を切った。
「そろそろここが穴場である理由を教えてほしいんだけど」
黒子が答えを言わないはずがなかった。この男は見掛けよりずっと自己顕示欲が強く、自尊心は聳える富嶽のありさま。人並み以上の欲望を持ち合わせている。影が薄いために皆勘違いするだけで、歴とした人間だ。物にこだわらない弟の方が余程、欲望から遠い。
氷室が淹れた紅茶を舐めるように飲む黒子の唇が愉快に歪んだ。訊かれるのを心待ちにしていたのだろう。氷室はコーラを流し込み、罵倒する準備を整えた。
「そうだぜ、治安も悪くねえのに人っ子ひとりいねえのはおかしいって」
卵焼きを頬張りながら弟が加勢する。やはり、弟なりに気になっていたのだろう。
「この場所は」
物語をなぞるように話を始めた。薄い唇がページを捲るように淡々と開いては閉じる。
「普段は賑やかなのだそうです。広いですし、国道に面していますし、車からのアクセスも良くて、老若男女さまざまな方が訪れるんだとか。しかし今日は、どなたも長居しないようですね」
咀嚼し終えた弟が話を聞く姿勢になった。氷室は火神の唇の端についた米粒を親指で拭い取ってやった。ごま油の味がする。
「心中が、あったそうです。確実に死ねるように片方を木の枝に括ると、もう片方は手首と首を斬って自害した」
親指を舐めた氷室はなんとなく口寂しくなり、カルパスの包みをくしゃくしゃと開きはじめた。
「それが今日、なんだとか」
「つまり、どういうことなんだよ?」
弟が神妙な顔で話の続きを待っている。氷室は小枝のようなカルパスを放り、噛みながら答えた。
「不吉だかなんだかわからないけど、地元の人も遠くから来る人も嫌がってこの日はここに来ないってことじゃないのか」
「そういうことです」
講談でも一本終えたかのようにどこか自慢げな顔立ちで言い切るのだから、氷室は呆れた。
「怪談にしては呆気ないなあ。いつの話なんだ?」
「少なくとも明治には語り継がれていたそうです」
「それなら江戸時代に起こった話かもしれない。江戸ねえ……」
カルパスを飲み込んだ氷室は頬杖をついた。せめて昭和であればまだ現実味があるというのに。横目でチラと弟を伺えば、顔を青ざめるどころか平然と蓮根のきんぴらに箸を伸ばしている。
「人間が死んでない場所の方が少ねえんじゃねえの」
「それはそうだ。お前、いいことを言うね」
「だってそうじゃん」
化けて出るのであれば、弟も泡を吹いて倒れただろう。だが、この地で心中しただけでは、弟を気絶させるには遠い。黒子が「穴場」と言うからには、何かもっと気持ちの悪い逸話があるのではないか。とはいえ氷室はその先を強請らなかった。どうせ、黒子が話したくなったら話す。
「なかなかどうして、氷室さんも火神君も肝が据わってますね」
「それを言うなら、そんな話を知っていながらここで花見をしようと提案した君の方が、怖い物知らずだ」
「確かに。その通りですね」
目を細めて可憐に笑む。機嫌が良かった。彼の不機嫌な姿ばかり見てきたわけではないが、それにしても今日は素直だ。それが、氷室には引っかかる。断ちそびれた糸くずをいつまでも垂らしているように。
「人が死ぬ場所っつうか、死にやすい場所ってのは似通うって聞くぜ。日当たりが悪いとか、湿度が高いとか、床が歪んでるとか」
「伊達に事故現場を引き当ててないなあ」
「好きで巻き込まれてるわけじゃねえよ」
焼いた笹蒲鉾を咥えながら器用に弟が言い返す。氷室は自らのコップにコーラを注ぎながら、ほうと息を吐いた。五月の行楽の花見だというのに、何とそぐわない話題か。しかし、不謹慎だと眉をひそめられる話でも、続くのがこの三人だった。
兄弟である氷室と火神、それに火神の相棒である黒子を含めた三人は、いつの間にかしばしば顔を突き合せる間柄となっていた。三人の中で最も共通の関係性を持っているのは火神だが、黒子は火神を目当てにしていない。氷室も黒子はどうでもいい。だが、何かと火神が黒子を誘い、何かと黒子が火神と氷室を誘う。ゆえに仕方なく、氷室も付き合っている。
昔から、あらゆる人間の眼差しを浴びてきた。だからわかる。
「今度、スリーオンスリーで小さな大会にでも出る? この三人でどういうゲームができるか、想像がつかないんだ」
急な話題の振り方だった。だが、三人の共通の趣味と特技を考えれば、やらない方がおかしい。氷室は人のいい保護者がする態度で、無邪気に提案した。真っ先に食いついたのはやはり火神だ。
「いいな、それ! すっげえやりてえ! 黒子のパス受け止めるタツヤ見てえー」
「そういえば……どうしてその可能性を考えなかったんでしょう。僕も是非参加させてください。氷室さんは、僕のパスから得たものがあると聞いています。実際に見てみたいです」
割れた眉をきゅっと上げて勢いづく弟の隣で、黒子は微笑を浮かべる。真意はどうあれ、ふたりとも乗り気だった。
「そうと決まれば練習だな! なんかいい感じの大会ねえの?」
「夏にはあるんじゃないですか? 以前、降旗君が誘ってくれたのがあったでしょう。あれなんてどうです」
「ああ、タイガと俺がばったり出くわした場所か。懐かしいな。今度は雨が降らなきゃいいんだけど」
何の気なしに呟いた氷室の目の前で、火神の耳介が色付いた。気まずそうに顔を伏せる。何かあっただろうかと当時の記憶を振り返ったが、弟が恥じらいを感じる事といえばアレしかない。氷室は目の前の火神にもあの日の出来事にも気付かないふりをして、コーラを煽った。
「火神君」
弟は黒子から逃げるようにそうっと顔を背けた。
「火神君、どうしたんですか? 耳が赤いですよ」
返事をするどころか口を噤むばかりの弟は、胡座をかいた尻でもずもずと距離を取る。黒子は火神に問いを重ねるも、決して火神は口を割らないだろう。その様を氷室はピクルスを囓りながら眺めた。
あの日──互いにまさかここで会うとは思っていなかった。
数年ぶりにこの目で見た弟は氷室の知らない男になっていた。背も高くなっていたし、身体も出来上がっていた。弟への怒り、哀しみ、溜め込んだあらゆる感情を吐き出さないように氷室は己を律した。
それで終わるはずだった。
雨で試合が流れ、チームで別れたはずのあの後。我慢できなかった。殴り、罵声を浴びせたい感情を性欲が上回った。別れたはずが、互いにチームメイトに断りを入れて引き返した。
叩きつける雨を浴びながら互いの眼差しを見れば、もう止まらなかった。
あのまま広場の片隅で交わって、それでも足りずに近くのラブホテルになだれ込んだ。
数年ぶりの弟とのセックスは気持ちが良くて頭が溶けてしまいそうだった。おそらく、弟もそうだったのだろう。
だから、氷室にとってあの日の出来事は今でも身震いするほど熱い衝動と共に蘇る。火神もそうだったのだと、氷室は今ようやく知った。
黒子がいなければここで始めてしまいたかったくらいには、氷室は気分が良かった。
陽光の下、遅咲きの桜を眺めながら互いの情動に揺れることに、氷室は何の躊躇いもないのだから。
昔を思い出していた。
男と初めて会ったときのことだ。
あれはわざわざ慣れた母国語で──なにせ国籍はあちらなのだから──第一声を漏らした。意味がわかっていたのは、あの場では木吉と火神だけだったろう。
酷く特徴的だった。だからこうして黒子はまだ覚えている。
“well,well”──彼はそう口にした。それは意味を成さない感動詞のようなものだと黒子は勝手に思い込んでいたが、アメリカ映画でその台詞が使われるのを見れば見るほど、男の性格の悪さを思わずにはいられなかった。
おやおや。やれやれ。さて。
横たわる事態を小馬鹿にする嫌味として使われる。末端ばかり誇張される映像作品でどれだけ実に沿うかなど考えるだけ無駄だと理解していたが、かといってこちらの予想が大きく外れているわけでもあるまい。
喧嘩別れをして、数年ぶりに異国の地で出会った弟分を──相手は呆然として、青褪めてさえいたというのに──素知らぬ顔で茶化す程度には、質が悪かった。
己の言動が何をもたらすのか、わかっていてやるのだから。
厚い雲の切れ間から薄陽が差していた。頬を撫でたそよ風が梢を揺らす。
伸びた腹の皮が醸す眠気が、敷布を共にする三人に平等に降り注いでいた。暖かで過ごしやすい気温は、身体に掛ける布きれがなくとも微睡みを与える。
畳んだ腿に頭が乗っていた。室内をすっかり暖め終えた後の、緩やかな残り火を思わせる朱と黒の頭髪。短く切られているために、尚のこと暖炉の火を思わせる。
兄に膝枕をしてもらう弟。言葉にすれば、これほどまでに呆気なく、自然な姿だ。
だが、兄として振る舞うこの男が気安く腿を貸すことはないと、誰だって知っている。彼が身体を明け渡すのは、付き合いの長い弟か、もしくはほんの気まぐれ。
羨ましくないと言えば──嘘になる。
ふたりは黒子という第三者を目の前にして、仲睦まじくくだけた様を見せていた。そこに恥じらいも後ろめたさもない。黒子の影の薄さも影響しているだろうが、きっと彼らは誰であろうと態度を変えないだろう。
見事なまでに不遜で、憎らしいほどに傲岸。だから、彼らから目を離すことができない。
こんなにも誰かに心を奪われることなどなかった。
黒子はおそらく、ただ見ていたいだけ。
彼らの行く末を。
欲を言えば彼の麗しい──顛末を。数多の嘆きを糧に栄華を極めるその様を見ていたい。
世界が彼のためにあるのだと錯覚してしまえるほどの滑稽な喜劇が見たかった。
それは黒子だけの愉しみ。最前列で見られるのなら、内なる妬みすら心地よかった。
黒子にとって彼らは、替えの効かない娯楽だった。だから、黒子自ら台無しにはしない。
熱い紅茶を啜った。行楽の際に持ち寄る茶といえば、ほとんどの日本人は焙じ茶か麦茶であろうが、彼らが用意したのは紅茶だ。淹れたのは火神ではないだろう。火神が茶と望まれて紅茶を選ぶはずがない。
大雑把な彼がふとしたときに覗かせる育ちの良さが好きだ。つくづく気になってしまう。彼の両親は、彼をどのように育てたのだろうか、と。
黒子は自嘲を浮かべた。だがそれは、海に落ちた一滴の雨粒のように誰にも気付かれることなく消えた。これだけ思いを募らせているというのに、黒子は彼を何一つ知らない。
「タツヤ」
彼は呼びかけに声もなく微笑を浮かべ、頬に手を伸ばした。引き締まった輪郭を白い指がとろとろと甘やかす。ただ頬を撫でているだけというのに、黒子は唾を呑み込んだ。衝動が眼差しとなって彼を追う。
風に揺れる桃色の枝。明日にも散ってしまいそうなほど枝々に重い花を乗せた桜を背に、彼らだけが睦み合っている。それはまさしく一枚の絵画であった。切り取られるべき永遠。
同じ銀の指輪を鎖に通し、瞳に映る相手だけをこの世の全てとして慈しむ。
彼らの目の前に居る黒子は、ただ見ているだけ。
手を伸ばして届く距離でありながら、決して交わることのできない完璧な光景を、ただただ眺める。
それで黒子テツヤは満たされていた。
望みは叶ったのだから。
この場の主役は桜ではなく彼。
どこまでも優美で、どこまでも身勝手な氷室辰也という男。
優雅な景色も優れた弟も全てすべて己の糧として君臨するこの姿が見たかった。この男は決して桜に霞みやしないと理解していた。黒子の理論は完璧に証明された。
桜が好きなわけではない。騒がしい花見には興味がない。
ただ、彼をより麗しく艶やかに引き立てるための贄が欲しかった。
彼が彼らしくあるための舞台装置。どこまでも奔放に放埒に、森羅万象は彼の糧であった。
仕上げは彼を崇めるこの男。
薄桃色の爪の填まった指先が、黒に近しい暗い赤をあやす。彼の膝に頭を乗せた火神はさながら犬猫の類いそのもの。それは毛繕いであった。聖母のごとき寛大な兄が弟を甘やかしている。飼い主が家畜の毛繕いをしながら労っている。そうとしか見えない光景は、実のところ逆転した関係に基づく。彼は弟に甘やかされている。彼は弟である火神に求められることで、兄である自己を確立している。
だから、黒子には想像できない。火神という弟を喪った氷室辰也を。
それはきっと、しかし間違いなく、黒子の愛した氷室ではないだろう。
火神という枷が外れた彼は、もしかしたらとびきりの好青年となるかもしれない。もしかしたら目も当てられないほど卑屈になるかもしれない。もしかしたら、もしかしたら──思いつく限りのいくつもの未来が想像できた。なにせ、火神は彼のための檻で、彼を火神のための『兄』として仕立て上げるための矯正具。好む好まざるに関わりなく、彼は「火神大我の兄として」過ごしてきた。──であれば、もはや火神という弟は彼の一部で、未だに血を流す古い傷で、ゆえに彼の意志で拭い去ることはできないだろう。
それだけ強かだった。この、火神大我という男は。
ただそこにいるだけでいい。周囲の人間を思い通りに動かした。火神が強要したわけでも懇願したわけでもない。この男はただそこにいればいい。その点、まさしくこの男は彼の弟だった。血の繋がりなどない癖に、彼の最も彼らしい部分と似通っている。それが黒子には歯痒く腹立たしく、地団駄を踏むほど妬ましく苛立つ。
どれだけ顰め面で愚痴をつぶやき、相手の行動を批判しようと、あれだけ我の強い黒子の元学友がこぞって火神には甘い。黒子は改めて己を賞賛したものだ。昔から人を見る目だけはある。黒子が賭けた相手は、黒子の全てを賭けるに値する人間だった。
火神大我という男を評価している。そうでなければ三年も相棒を務めるものか。
火神大我という男を評価している。しかし黒子が欲しいのはもっと──不器用な男。
己が舞台に立っていることすら理解していない、かわいい男。
不器用なくせにそうと気取られない、かわいそうな男。
彼は器用貧乏に違いなかった。きっと否定するだろうが──いいやもしかして、力なく肯定するだろうか? 彼のことを考えるだけで、身体の一部を無理矢理引き千切られるような痛みが脳を蕩けさせる。愛おしくて仕方ない。
「眠くねえの?」
「お前を膝に抱えて眠りはしないね」
「退ける?」
「いいよ、このままで」
「やさし」
「お前だけだよ」
黒子を置き去りに睦み合う。黒子はただ、熱い紅茶を味わいながら目の前の喜劇を眺めた。
昔から他人を眺めることが好きだった。こちらが見ていることに気付かない他人の、どこか滑稽な姿を見るのが好きだった。それは視聴者を介在しない映画やドラマと同じ。
いまや黒子は物言わぬ観客であり、彼らを頭蓋の内で記録し続けるカメラでフィルムだ。
「ここに来る前にあった道の駅、帰りに寄ってもいい?」
「おう。なに、トイレ?」
「違うよ。地元の野菜でも売っていないかと思って。さっきは車がすごかったろう? でも、帰る頃には収まっていそうだから。ね?」
「いいじゃん。欲しいもんでもあるのか?」
「さあ。何があるのかを知りたいんだ」
「知識欲ですね。好奇心ともいいます」
甘やかな戯れに口を挟む。この程度で彼らの睦言が終わることなどないと知っているから。案の定、氷室は火神に顔を向けたまま、気のない問いかけをした。義務としての誘い。弟の友人の世話を見る、年長者としての務め。彼はつくづく擬態が上手い。
「黒子くんほどじゃないよ。帰り、乗っていくだろう?」
「そのつもりでした」
「じゃあ、付き合ってね」
どこか楽しげに釘を刺す。黒子が喜ばないはずがなかった。そこでの会話を思うだけで、黒子は溢れる熱を漏らしてしまいそうだった。店内で、どこまでも気に掛けられない立場で、彼らの戯れを愉しむことができる。
氷室はゆるやかに頭を上げて、黒子に微笑した。
垂らした前髪が微かに風に揺れる。
桃色の桜で編んだ木漏れ日を背に、膝に小賢しい畜生を湛え──きゅっと肌が泡立った。まるで直に撫でられたように。
どうでもいい相手に向ける、形だけの親密さに彩られた瞳の奥は、拭いがたい軽視で染まっていた。
完璧だった。
何もかもが完璧だった。
黒子が望む構図を前に、黒子だけが彼の相手を務めている。
兄弟ではなく、肉親でもなく、恋人でもない。深い関係性に交わることなどない第三者に与えられる、極上の仕打ちだった。
これこそが黒子の求めた褒美。彼の膝に転がっている身では決して味わうことなどできず、価値も見出されない不名誉。だからこそ黒子は欲した。
蚊帳の外で窃視に勤しむ人間にとって、これがどれだけの悦びを伴うか──。黒子は間違いなく、氷室と火神が価値を見いだせないものを愉しんでいた。
黒子の優位を本能的に感じ取ったのか、途端に膝の獣が拗ねた。「なあ、」と訳もなく関心を引く。
「夕飯も外で食う?」
「ああ、どうしようか。いまはお腹がいっぱいで考えられないなあ」
「黒子送ってから考えればよくね」
「まあ、その頃には腹も空いているかもしれないね」
宥めるための五指が、獣の頭部をするすると撫でる。指が櫛であるかのように。
犬はうっとりと目を細めた。彼の関心がふたたび己にのみ向けられたことを何よりも喜んでいる。
わかりやすい対抗心の発露に黒子は目元を緩めた。憐れみと嘲りと優越が粉砂糖をまぶした西洋菓子のように幾層も折り重なっている。
彼らにとって黒子は歪んだ路傍の石。火神が拾っているから相手をしているだけの、ちっぽけな存在だった。こちらがどう逆立ちしても、対等に扱われることはない。
黒子が望むのはただ一粒の香辛料。彼らがいつまでも互いに飽きないでいられるための、ピリリと苦い塩胡椒。彼らの望む望まぬに関わらず。
「そろそろ梅の時期だ」
「そういうもん?」
「桜が終われば梅だよ。八百屋の店先とか、それこそ道の駅に並ぶようになるんだけど。見たことない?」
「いや……パインは見る。あの時期だけ台湾パインが出るよな。一回茎ついたまんまの捌いてみてえ」
「おや、いいじゃないか。ピザに乗せるのもバーガーに挟むのも好きだよ」
「そのまま食いてえの」
見当違いの反応に、犬は膨れ面を演じてみせる。彼はフルーツをそのまま食べるという発想が薄いのだろう。特にパイナップルは。ピザやらハンバーガーに輪切りにしたパイナップルを挟むというのは、なるほど彼の育った国らしい。
ふたりは幼い時分から過ごしてきたと聞いている。しかし、この話題に関しては妙にちぐはぐに思えた。彼はわざと弟を揶揄ったのでは?
すん、と鼻先を擦り付けるようにして、犬が大仰に甘えた。その態度も声音もこれ見よがしであったから、黒子は心で憫笑を浮かべた。飼い主の関心がそれほど欲しいか。
「タツヤはパインと俺、どっちが好き?」
「比較にならないじゃないか」
「どっち?」
黒子の目の前で仕上がる西洋菓子の、憐憫と嘲笑の層が厚くなる。唇が弧を描こうとしていた。慌ててつまらない顔を保つ。彼はくすぐったそうに愚問を返した。
「お前だよ。パインは剥いて食べたらそれで終わってしまうじゃないか」
落ち着かない犬を見せかけの包容で宥めようとする。彼らしい態度だった。
「じゃあ、俺と黒子だったら?」
黒子は手にしたカップを口に押しつけた。そうでもしないといよいよ余計な一言を漏らしてしまいそうだった。
馬鹿な犬だ。戯れに包んだ嫉妬に、彼が気付かないはずがない。この畜生は快男児に思えて、自身の兄にのみ粘度の高い執着を見せる。形振り構わないから厄介だった。
「お前だよ。そもそも、お前の相棒じゃないか。お前の方がよほど彼を知ってる」
昔読んだ童話に似たような問答があった。家に入れるよう母を騙る狼に、羊たちは何かと理由をつけて母である証拠を見つけようとした。
彼らは狼でも羊でもない。これはただの言葉遊びで、わかりきった符号をもてあそんでいるだけ。だから馬鹿な質問を重ねる。馬鹿な質問に戯れの答えで返す。まだ彼は馬鹿な質問で吠える犬に馬鹿と罵らない。
本屋のそばの喫茶店。彼は決まって何も混ぜないブレンドで、思い出したようにカップに口をつけた。表通りに面していない古びた喫茶店だから、知り合いと出くわすことはなかった。ピンクの豚が描かれたちくま文庫の表紙。オーウェルの『動物農場』。原著で読まないのだろうかとちいさな疑問を抱いた。そのとき黒子が読んでいたのは安部公房の『壁』であったから、どれだけ物語の内容が頭に入らなくとも気にならなかった。名前に逃げられた男が七転八倒する様を見届けるより、灰青の物憂げな瞳が文庫の文字を追う姿を優先した。
この犬は、彼のあの姿を知っているだろうか?
「俺と木吉センパイ」
「なんだよそれ。タイガだよ」
馬鹿な会話が続く。呆れを滲ませながらも、彼は答えた。
「緑間は?」
戯れにしてはしつこい。
「そうだね。シューターとして彼とは気が合うのだけど……それはそれとしてお前かな」
古い写真。紙焼きのそれはピアノの発表会を写したもので、ある著名な師範の弟子を集めたものだった。どこか病弱ささえ感じさせる眼鏡を掛けた少年。それから、前髪を左に垂らして微笑を浮かべる少年。同じ列ではあったが離れていて、しかし同じ一枚に収まっていた。
開かれることのない箱の底に仕舞われていたかのように、折れひとつない写真だった。その写真が撮られた会場の色彩もはっきりとわかった。
見るつもりはなかった。ただ、見てしまっただけだ。
「紫原」
「アツシは後輩で十分だよ」
彼はゆったりと答えた。苛立っていた。飽き飽きしているのだ。
くだらない会話が早く終わらないかと。この馬鹿な犬が馬鹿な質問をすぐに切り上げないかと。最も無意味な時間の使い方だと。そう言わんばかりに彼は微笑を浮かべている。
彼が望めば、すべてはすぐに終わった。
足元の犬に一言命じればいい。だが、彼は犬が自発的に口を閉じることを望んでいる。彼が命じては意味がなかった。犬が自ら過ちに気付かなくては。
もうすこし、賢い犬ならよかったのだが。
「青峰」
もはや犬には彼しかなかった。問答を始めた犬が問答に取り込まれていた。
だからこれは彼の戯れであると同時に、彼の不安の表れでもあった。普段は深く埋めている厄災を、戯れという名のスコップで掘り起こしてしまった。
彼は己に注がれる煮え滾るような妄執をまともに浴びながら、頭を撫でてやった。
ゆったりと。彼の指が櫛に思えてしまうような甘やかさで。
「それなら──青峰くん」
彼は慈愛すら感じる穏やかさで、犬をあやした。誰も何も言わなかった。そよぐ風が梢を奏でる。花見日和だ。
「なんで?」
黒子はただ満たされていた。この先、黒子は何度でもこの場面を思い返すだろう。
蜂蜜のような陽光が木漏れ日となって差し込んでいる。誰もこの場を邪魔しない。
「良さそうじゃないか。お前に似ているし」
黒子は幸せだった。人生にいくつか訪れる、幸福の絶頂というもののひとつを味わっている。
今日の日を忘れることはないだろう。彼の中に入ったあの日よりも、もしかしたら幸せを感じているかもしれない。
「この木にまつわる話がもうひとつあったのを忘れていました」
句読点で区切ることなくまろび出た。浮かれていた。なにせ脳髄は幸福で使い物にならなくなっている。こんなにも楽しいことがあるだろうか。
「おや、黒子くんてば人が悪い。あれだけで人が来ないなんて、皆がコンテンツ探しに明け暮れる昨今にめずらしいからね。つづき、聞きたいな」
助け船に彼は乗った。膝元から注がれる凍てつく眼差しに愉悦を覚えながら、黒子は言葉を続ける。
「毎年、春。彼らの命日になると、この桜は満開の枝振りを晒すそうです。どれだけの寒波であろうと。他の桜が芽吹いていなかろうと散っていようと。この桜だけは必ず咲き誇るんだとか。そして、その花弁のひとつひとつをよく眺めてみると──そのすべてに見えるんだとか」
「何が?」
「死んだ人間の顔が」
彼は手を伸ばして近くの枝を引き寄せた。その拍子に枕がくずれて犬は転がり落ちた。梢のざわめきは嘲笑に似ている。
桜を我が物顔で扱う彼を咎める者はいなかった。白魚のようにしなやかでありながら、骨の厚みを感じる手。
まじまじと花弁を覗き込んだ彼は微笑した。それが誰に向けられたものでもないことだけが、黒子と犬が理解できる唯一だった。
罵声。
罵声。
感情のままの罵声があたりに響いていた。
私有地の、それも人里離れた山奥というのはどこまでも都合がいい。
なぜそんなものを弟が好き勝手にできるのかはさておき。氷室も知らないものをどうして説明できるだろう。
前日の雨でぬかるんだ腐葉土にパイプ椅子の脚が食い込んでいた。このあたりは人が通らないのだろう。もう少し水はけが良ければ、きっとふかふかの地面を楽しむことができただろうに。弟はこういうところの気が利かない。
なにせ夜だ。
ときどき名前のわからない鳥の鳴き声が聞こえてくるくらいには夜だ。
ミミズクなのかニホンジカなのかもわからないくらいには辺りは真っ暗で、月も出ていない。
ときどき近くの茂みを何かが横切るようだが、それがキョンなのかアライグマなのかすら氷室にはわからなかった。
「なんでお前なんだよ!」
激昂。ずっとそれを聞き続けている。
馬鹿のひとつ覚えで、同じことを繰り返している。同じことを聞かされている。
「お前がタツヤの何になれるんだよ! 言えよ、言ってみろって!」
殴る、蹴る、剥がす、抜く、開く、折る、潰す、裂く、焦がす、千切る。
あと何をしただろうか。詳細は闇に溶けてしまったが、目の前にその結果があるのだから細かいことは気にしなくていい。手を替え品を替えいくつもいくつも見せられたそれらを覚える必要がどこにあるのだろう。
弟はつくづく、こうしたことが好きだ。非生産的で無意味な戯れ。氷室の対極にあるもの。
弟は無駄が好きだ。氷室にはまるで理解できないが、そうしなければ自己を保つことができないと理解していた。
だから弟といっしょにいる間は何もいらない。弟の面倒を見るので手一杯だ。
世の異性とは大概こういうものだと、虹村に聞いた。氷室は弟の世話で忙しいので、他はいらない。
弟が考えつくだけのありとあらゆるやり方で目の前の肢体は傷つけられた。轡をさせなかったものだから、可哀想な口はずっと弁解を吐き続けた。今はもう血の混じった痰の絡む音と荒い呼吸と、恐怖に怯える小さな悲鳴しか聞こえない。
かわいそうだった。
だけれどこうしなければ弟は弟であることができないのだから、仕方ない。
刃物を持っている癖に喉は裂かない。鈍器を持っている癖に頭を潰さない。
つまりはそういうことで、弟は認めたくないのだろう。
己の不用意で招いた憎しみと妬みと嫉みと僻みと哀しみを、氷室ではなく己でもなく可哀想な彼に押しつけている。
否定したい。否定してほしい。他でもない氷室に。だから氷室はこうして一部始終に付き合っている。
時間の無駄であるのだけど。
本当に何もかも無駄なのだけれど。
氷室は欠伸を噛み殺した。
飽きていた。もうとっくのとうに。
「タイガ、どうしてこんなことを? かわいそうじゃないか」
「『どうして』?」
氷室の台詞を引用し繰り返す。
覚えの悪いオウムのようで愛らしい。
「どうしても何も……ッ、全部コイツが、コイツが悪いのに! コイツさえいなければ、タツヤは、ずっと、俺の、おれの」
「俺のいちばんはタイガだけど」
幾度も振り下ろされた手が止まった。弟だけ一時停止したように固まっている。後先考えない弟は頭から爪先まで汚れていた。
暗闇でも濡れた双眼の在りかはすぐにわかった。生きている動物の瞳は勝手に光る。弟も同じ。だから氷室は夜間の狩りが得意だ。あちらが勝手に場所を教えてくれる。
弟がこちらを見た。
ようやく、まともに氷室を見た。ぬくもりで心が満たされていく。
甘やかな恍惚。射精とは異なる愉悦。水溜まりで藻掻く羽虫を指で掬ってやるのと同じ。
藻掻くだけもがいて息絶える手前で救うのがいい。
「ただの冗談だよ? タイガと彼だったら、タイガを選ぶ。お前ならわかってくれると思ったのになあ」
「そう、なの?」
「うん。だって俺は、タイガの──兄貴だから」
微笑んだ。
機嫌の良い氷室はとびきりの優美さで表情筋を動かした。
弟ではなく弟の後ろにいる彼に向けて。
だって、こうも理不尽な目に遭った彼がかわいそうだ。
弟はそれを己に向けられたものと早とちりした。弟は途端、誰もが知る快活な火神大我に戻った。機嫌良く、眉をきゅっと上げて喜んだ。汗と脂と土埃でくまなく汚れていたが、愛しい弟がわからない氷室ではない。
「なぁんだよ! タツヤ、人が悪いぜ!」
「おやまあ、お前ときたらすっかり周りが見えていなかったんだもの。いつ切り出そうか、ずっと考えていたんだよ?」
「へへ」
弟以外に聞かせない、媚びた口調で付き合った。機嫌の良い弟を前に、浮かれない兄などいないのだから。
弟の目には氷室しかなかった。元通りの顛末、望み通りの結果に氷室はすでに飽きていた。射精よりも楽しいが、射精よりも長続きしない。吐き出した余熱でどうにか取り繕う。弟は何も気付かない。いつも都合のいいことしか見ないので全てが杞憂だ。「なあ、」と甘えた声を出す。足元の土くれを蹴って、もう過去に背を向けていた。
「腹減ったし、風呂入りてえし帰ろうぜ」
「どこかに一泊しようか、夜も遅いしね。でも──」
弟が捨てた過去に懐中電灯を向ける。椅子に縛られた身体は、どう頑張ってもどうにもならないに違いなかった。例えばいま氷室がどうにかしてどうにかなったとして、それが彼のためになるだろうか?
甘やかされて育ってきた彼が、どうにかなってしまった先でどうにかなれるだろうか。
水溜まりで藻掻いた羽虫は掬われても衰弱して死んでしまう。氷室はその様子を見届けるまで付き合うが、彼にそこまで強いるのはかわいそうだ。
「後片付けはしようよ」
予め用意しておいたポリバケツの口を開くと、椅子に向けて中身をぶちまけた。
弟のわがままに付き合って眠いし、腹も空いたし、何より疲れている。弟は遊んだ後の片付けをしないし、これも兄の務めだ。
手が濡れていないことを確認して、ポケットから紙マッチを取り出す。道の駅でもらったものだ。買った野菜の始末は明日しよう。
ひとつを勢いよく擦ると、小さな明かりが生まれた。
氷室はそれを濡れた椅子に向かって放り投げた。
「おなかすいたね。ドライブスルーで何か注文しようか」