ありえた未来 馴染み深い太陽系で……



 デスクに置いたスマートフォンの画面に着信が表示されたのは朝の五時だった。
 集中力を切らさないよう、サイレントモードにしていたスマートフォンの着信を知るには、直接画面を見るしかない。
 徹夜で仕事を片付け、パソコンをシャットダウンするところだった。書き上げた原稿は目覚めてから見直すことにして、歯でも磨こうとしていた。
 風呂は寝てからだ。一日部屋から出なかっただけ。明日誰かに会う予定もない。いや、もう今日だ。
 黒子は指で応答をスワイプした。この時間にめずらしい。着信があることではなく、彼からの着信が。
 彼はメッセージアプリやSNSをしないので、彼からの着信は可能な限り応じている。それが彼との主な連絡手段だからだ。
 スピーカーをタップした。スマホを持って話す気分ではない。
 
「おはよう、今いいか?」
「おはようございます。僕にはこんばんはおやすみなさいですけど」
「いつものことじゃねえか」
「だから掛けてきたんでしょう」
 
 スピーカーから笑いが漏れた。黒子がこの時間まで起きていることは、親しい人間には周知の事実だ。
 高校を卒業して、数えるのに記憶を巡らせなくてはならないほど、時が経った。疎遠になった友人もいるが、彼とはなんだかんだで繋がっている。腐れ縁の類いだろう。あの時彼に賭けたのは、人生の中でも未だ色褪せないハイライトだ。
 
「助かる」
「仕事のネタにしますから」
「いいけど。読むのタツヤだし」
「仕事はどうです? 今季はいい調子と聞いていますが」
 
 電話の相手はバスケットボールプレイヤーだ。それも、NBAのチームでレギュラーを張っている。移籍せずに経験を積んできた彼は、頼れる中堅の選手となっていた。
 あの頃の知り合いで選手にまで進んだうちの一人。幼い頃に英語圏で暮らしていた彼には、故郷へ戻ることなど造作もないことだった。
 
「おう、いい感じ。今年こそ優勝目指すぜ」
 
 彼がこの仕事に就いてから、ずっと聞いている台詞だ。とはいえ、契約中に有言実行しているのだから侮れない。黒子の同級生と異なり、彼は決してバスケットボールのセンスがずば抜けているわけではないが、人望がある。ムードメーカーとして、チームを奮い立たせる才能がある。今の仕事は、まさしく天職だろう。
 
「また優勝してください。セールとハイライトを楽しみにしています」
「順番逆じゃねえ? サインくれって言われてもやらねえからな」
「あ、いらないです。ありがとうございます」
 
 くすりともせずに返した。カメラの前でもファンサービスでもチャリティでもしている彼に頼むことはしない。そんなものよりずっと素敵なものを黒子は得ている。
 
「で、火神君、何かありました? こちらの朝の五時に電話を掛けなくてはいけないくらいの、何か、なんですよね」
 
 相手は黒子と違って昼夜逆転とは無縁の生活だ。しかし時差がある。今頃、夜のゴールデンタイムだろう。
 日課を見送ってまで黒子に聞かせたい話とは──だいたい予想は付いている。
 高校から彼と付き合ってきた仲だ。彼が心を乱すのは基本的にひとつしかない。
 
「あのさあ……マンダロリアンってあるじゃん……」
 
 思わず眉間に皺を寄せた。マンダロリアン? よりによって彼が? バスケと食事と兄で頭がいっぱいの火神君が?
 困惑しながら黒子は答えた。
 
「え、あ、はい。スター・ウォーズですよね?」
「らしいな」
 
 疲れた声だった。どこかうんざりしている様子だ。
 
「今月封切り……でしたっけ。ああ、来週だ」
「そう、来週」
 
 声が暗い。何が彼を落ち込ませているのだろう。
 
「どうしたんです? シスの暗黒卿にでも魅入られました?」
「いやなんかよくわかんねえんだけど……その、なんか……タツヤがハマって……」
 
 黒子は目を大きく開いた。なんということだろう。全くの想定外だ。あの氷室辰也が、この歳になって、よりによってスター・ウォーズにのめり込むとは。
 口調でわかるとおり、火神は何かに熱中するということに疎い。流行にも古典にも疎い。彼が入れ揚げているのは兄とバスケだけだ。多くの兄弟間がそうであるように、火神もまた多くの趣味嗜好性癖を兄の影響下で醸成した。
 つまり、氷室辰也はサブカル──オタク趣味を持たなかった。オタクでもなかった。コミコンとは無縁の人生を送り、オタクがイラストに励んでいる間ダンスパーティで女性とダンスを踊ったはずだ。
 まさかあの氷室辰也が──よりによってスター・ウォーズ。衝撃の大きさに黒子は言葉を無くしていた。相槌を打たない黒子の代わりに、火神が話を続ける。
 
「いま、配信で全部見られるらしくてさ、家にいる間ずーっと見てんだよ。アニメ」
「アニメですか?」
「なんだったっけ、反乱者たち? クローンウォーズ? なんかそういうの」
「クローン・ウォーズ、シーズン7までありますよ……」
 
 パソコンで検索しながら絶句する。アニメに興味関心すら持たない、あの氷室辰也が、よりによって全133話あるクローン・ウォーズを? 
 
「いいですか、火神君。僕も熱心なファンではないので詳しくはありませんが、クローン・ウォーズはアナキンが暗黒面に堕ちる前の話です」
「うん全然わかんねえんだけど」
「簡単に言うと、映画マンダロリアンを見るためにわざわざ見なくてもいいアニメです」
「それ! それ見に行くって言ってた! で、俺にも話してくれたし見せてくれたんだけど、あんまよくわかんなくて……説明なしにいろいろ進んでって、ついていけねえっつうか」
「……ジェダイはわかります?」
「ライトセーバー振り回すやつだろ! それのせいでタツヤが剣道始めて! フォースの使い手になるには型を知らないといけないとかなんとか!」
「ああー……そういえば、氷室さん木刀買ってましたよね……あの、京都の……太秦映画村の……」
 
 遠い記憶を手繰り寄せる。かつて高校生だった頃、集められた知り合いと共に京都へ観光に行かされた。赤司の関係で有無を言わさず予定を空けさせられたのだ。京都だというのに地元の厄介者であった新撰組の羽織を着て、プロモーション活動をさせられたとき、氷室だけが木刀に興味を示していた。火神よりも長く幼少期をアメリカで過ごした男だ、ああ見えてニンジャスレイヤーの世界で生きていけるタイプかもしれない。
 
 スピーカーから蛙を潰したような呻きが漏れた。彼もまた思い出したのだろう。
 黒子はパソコンでメッセージアプリを起動し、デフォルトアイコンのユーザーをクリックした。この兄弟はインターネットに対してどこまでも素っ気ない。
 
「……まだ家にある」
「物持ちいいですね。それにしても急にハマるなんて、何かきっかけでもあったんですか?」
「最初はアレックスが勧めてたんだよ。弟子たるものスター・ウォーズのひとつやふたつ見ないとダメだって。でも、その時は俺もタツヤも聞き流してた。興味なかったし、長いし。でも、一ヶ月前くらいからタツヤがスター・ウォーズの話しはじめて……。あれ、映画だけじゃなかったんだな……映画までは付き合って見たけど、ドラマとかアニメは流石に」
 
 彼らの師匠──バスケットボールを教えたアレックス・ガルシアは、兄弟と異なりオタク趣味を好んでいた。米国人の例に漏れずナルトは読了していたと聞くし、日本に来たときはホビーショップをふらついたという。黒子も付き合いが深いわけではないので、よくはわからない。しかし、火神の話を聞く分には、少なくとも彼らには影響を与えることはなかった。
 
「なるほど、下地はあったんですね」
「仕事で見る機会があったって言ってた」
「氷室さんって国のお仕事ですよね?」
「おう。タツヤは軍にいたかったけど、流石に危ないし。長く続ける仕事じゃねえよ。今の仕事は軍にいたときにスカウトされたって聞いた。あの頃より今の方が家にいることが多いから、俺は嬉しいけど」
 
 有名大学を卒業した彼の兄は何を思ったか、一年間世界を放浪した後に入隊してしまった。彼の地元が誇る、世界最大規模の軍に。彼は相当デキる人間だったらしく、すぐに特殊部隊へ編入し、紛争地帯へ何度も送られた。その頃、ほぼアメリカにいなかった氷室に対する恨み辛み愚痴哀しさ虚しさ愛おしさを、この相棒からどれだけ聞かされたことか。黒子が聞いていた分、氷室には吐き出していないということ。火神は氷室にとって良き弟であり続けたらしい。
 数年前から官僚になったと聞いている。お役所仕事ではないことだけは確かだ。上層部からスカウトされる特殊部隊の人間が就く仕事など、相場が決まっている。そのあたりを黒子が直接彼に訊くことはないが。
 火神がうんざりした声でつぶやく。
 
「推し?とかアイドルに家族を取られるってこういうこと?」
「ああ、まあ……そう言えなくはないですが……相手が悪いです。プリクエル、何よりディズニーに売られてから賛否両論ありますけど、なんだかんだでスター・ウォーズは長きにわたり世界中にファンを持つ巨大な世界です。もはや宇宙で、銀河帝国です。映画版マンダロリアンを見るにあたり、見なくてもどうにかなるシリーズまで見ているあたり、相当のめり込んでいます。火神君にできることは、温かく見守ることです」
「や・だ!」
「そこをなんとか。一緒にバスケもしてくれませんか?」
「する」
「いいじゃないですか」
「……タツヤがずっとスター・ウォーズばっか見てるのが気にくわねえ」
「仕方ないじゃないですか……。むしろスター・ウォーズでよかったと思うのはどうです。浮気じゃないんですから」
 
 口に出してからしまったと黒子は後悔した。兄弟の関係性であれど実際は恋人の間柄の彼らに、つい口走ってしまったのだ。しかし、彼らは頑なに兄弟であると主張する。妙な突っかかり方をされたら面倒だ。
 しかし、火神にはそれどころではないようで、スター・ウォーズについてぐちぐちと愚痴を漏らしている。
 スピーカーから聞こえる不満に適当な相槌を打ちながら、黒子は指を動かした。こういうのは聞いてやるだけでいいのだ。
 さて、前回メッセージを送ったのはいつだろう。
 
『我らの道』
 
 それだけを打ち込んだ。時刻は夜の七時か八時だろうか。火神が夕食を食べもせず話をしているのであれば、家に彼はいないことになる。出張だろうか。以前より家にいる時間が増えたとはいえ、長期出張で家を空けることがままあると聞いている。
 とかく、彼の愚痴を口にするとき、火神の傍に氷室はいない。
 
 すぐには返ってこないだろうと静観していた黒子の目の前で既読が付いた。返信はあっという間だった。
 
『我らの道』
 
 思わず吹き出した。映画を見に行く予定の人間であれば、この返信に違いなかった。
 
「黒子?」
「なんでもありません」
 
 努めて冷静に振る舞いながら、キーを叩く。仕事なのか、部屋にいるのか。もしかしたら別の国にいるのかもしれない。
 
『タイガに聞いた?』
『ちょうどいま、スター・ウォーズに氷室さんを盗られたと嘆いています』
『奴はフォースと共にないからね。仕方ないね』
 
 兄の方が冷ややかだ。火神が氷室を放ってまで入れ揚げること自体がないからだろうが。
 むしろ、そうなったときの氷室は見てみたい。決して認めないポーカーフェイスの彼が鉄壁を崩すのはいつだろう。
 
『見に行かれるんですか?』
『あいにく初日は東京でね。この日だけは仕事を入れたくなかったんだが……どこかで見るよ』
『東京ならご一緒しますけど。時間の都合もつきますし』
『本当に? それなら一緒に見よう。オススメの映画館ある?』
『IMAXがいいですよ。調べますので、少し時間をください』
『ありがとう。俺は帝国ホテルに泊まるから』
 
 口笛を吹いた。キアヌ・リーブスが常連の格式高いホテルだ。さすが国の仕事をしている人間は違う。
 愚痴の合間に挟みこまれた口笛に、いよいよ火神が訝しんだ。
 
「黒子、聞いてんのか?」
「氷室さんと見てきます。マンダロリアン。初日に。僕、エピソード全てとスピンオフとマンダロリアンは一通り見たので。映画を見てもわかります」
 
 返事はなかった。悪態も。あまりにも長い沈黙に黒子が声を掛けたが、いつの間にか切られていた。スマホの画面は一方的に打ち切られた通話時間を表示している。
 
『氷室さんと一緒に映画を見ると伝えたら、切られました』
『あいつシス向きなんだ。ごめんね』
『それでは、長寿と繁栄を』
『スポックじゃないか。May the Force be with you.(フォースと共にあらんことを)』
 
 メッセージを終え、大きなあくびが漏れた。両腕を伸ばして身体の凝りをほぐす。
 あとは寝るだけという時間に、こんな目に遭うとは。今度火神と通話するときに何を言われるやら。
 
「いや、火神君のことだから、ついてくるかもしれませんね」
 
 氷室と黒子の待ち合わせ場所に割り込んでくるかもしれない。劇場に着くと、ふて腐れた顔の火神が待っている。十分有り得る事態だった。それはそれで、数年ぶりの再会を喜ぶことにしよう。
 それにしても、氷室はスター・トレックも知っていた。本編を見ていなくとも、アメリカで暮らしていれば耳に目に入る話題ではある。火神が知っているかはさておき。
 
「もしかして氷室さんの方が社交的では」
 
 あくび混じりに呟きながら、パソコンをシャットダウンした。今日は何があろうと業務終了。もう眠るだけにしたい。なにせ、これから大忙しだ。来る日の会話に備え、もう一度シリーズを復習しなくては。
 映画公開でDisney+にどれだけのユーザーが増えたのか、思いを巡らせながら黒子はデスクを後にした。